悪魔にだってなりうること

チア・シード

ルカ4:1-13   


ルカは、いわゆるクリスマスの出来事の記事からバプテスマのヨハネ、そしてイエスのバプテスマを経ての後のところに系図を置きました。そして、悪魔からの誘惑の話です。悪魔はディアボロスでした。福音書は、ヘブル語のサタンの音をそのままに保つこともありますが、ここではギリシア語に訳し、中傷する者という意味の語で表現しました。
 
異邦人たるルカ伝としては相応しかったかもしれません。イエスの物語は、実質ここからスタートすると言えるかもしれません。ルカのイエスは聖霊の助けが度々伴います。私たちにもまたその聖霊がついています。荒れ野へイエスが導かれたのも霊だとありますが、良い霊なのか悪い霊なのか、考えようによっては違う解釈が成り立つことでしょう。
 
四十日間という途方もない期間断食したというのは本当でしょうか。十分な期間を表すために四十という数字は使われます。期間が終わると空腹を覚えたという表現も尋常ではありません。私たち人間とは違うことが告げられています。最初の誘惑で「もしも子であなたがある、神の……」ルカは子だという点を強調し、神で締め括りこれもまた強調します。
 
中央に「あなたはある」が見え、「ある」方としての神が見えますが、これは悪魔の誘いです。もちろんイエスはこれに屈しません。説教とくるとこの悪魔の誘いとその切り返しとが通常メインになります。しかしここでは、応答の内容についてではなく、だからルカとマタイの違いなどは考えず、イエスと悪魔との対峙に注目してみることを試みます。
 
イエスにまつわるエピソードが、確かに教会に存在しました。ルカとマタイがそれぞれに採用した、この誘惑の記事です。悪魔はイエスを、後の二つの誘惑において連れ回すことをしています。イエスは十字架へ引き渡されるのですが、まるでここでも相手の自在に任せてしまっているようです。イエスは悪魔の引っ張り動かす中でもさしあたり逆らいません。
 
意のままに操られるかのように動かされていますが、信と魂まで引きずられているのではないし、引き渡してもいません。さらに言えば、言葉は全く動じないでいます。表向き神の言葉をぶつけられたとしても、悪魔の告げる神の言葉はただの文字であり、死んだものです。イエスの語る神の言葉は生きています。ひとを生かすべくはたらくことができます。
 
神の言葉を殺してしまう使い方があることを私たちは知ります。私たちの口から零れる神の言葉は生きているでしょうか。悪魔は三度の試みをもって「あらゆる」試みを尽くしたといいます。どれも神の言葉を流用する試みでした。私たちが神の言葉を、自分の道具のように用いるとき、私たちは中傷者の味方をしています。これは私たちへの警告です。


Takapan
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