羊飼いたちの行動力

チア・シード

ルカ2:8-21   


羊飼いたちは「夜通し羊の群れの番をしてい」ました。ここの情況を、私はこれまで誤解していました。この「夜」とは、一日の始まりだったのです。さあ新しい一日が始まる、との思いがあった中に、「主の天使」が現れたのです。不思議なことが始まりました。一日の始めに光が射しました。光と共に一日が始まる、とは通常考えられませんでした。
 
せいぜいそこにあるのは月の光です。でも、このときは栄光の光です。それを羊飼いたちは「非常に恐れた」のでした。「恐れるな」とは、もちろん恐怖の対象を示唆するものではありません。光の意味を知るのはそれから先です。「大きな喜び」へと反転するよりも、まずはそれが神の光であることを知るようになったのでした。
 
それは、人間の救いの過程でした。救い主が生まれたこと、それが待ち望んでいたメシアであること、それを告知されるのは救われた者であるはずだからです。「救い主」と呼ばれたということは、「あなたは救われた」という意味を含んでいます。乳飲み子が「しるし」となった二千年前の出来事は、私たちにとってはさしあたり過去の出来事です。
 
「乳飲み子を見つける」と天使に告げられたとき、よく見ると「行け」と命じられているわけではありません。天使と天の大群が賛美したシーンばかりが目立ちますが、これを見て羊飼いたちは、さあ行こう、と立ち上がり、急いでベツレヘムへ行くのです。「見つける」というだけの言葉が「行こう」となり「見よう」と展開してゆきました。
 
ヨセフの行動力というものがよく指摘されますが、この羊飼いたちの行動力にも驚かされます。そして、その乳飲み子を見事に探し当てているのも事実です。それから天使との出来事を「人々に知らせた」というようにも記されています。喜びの知らせを、ただ自分の中の感動だけで終わらせはしませんでした。この伝道力は、どこからくるのでしょう。
 
なすべきことを、だが強要されたのではないことを、自発的に行動に移しているのです。マリアの信仰もここには描かれており、しばしばそこばかり指摘されますが、それよりも羊飼いたちの信仰と行動力が、非常に目を惹くものとなっていないでしょうか。神の知らせたことはすべてその通りだったことを、神への賛美に換えて、また生活へ戻りました。


Takapan
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