羊飼いたちの訪問

チア・シード

ルカ2:8-21   


クリスチャンとは、一定の約束や習慣の中に染まってしまうもので、クリスマスの羊飼いたちの劇が、恐らく子どもたちの劇が、どうしても頭から離れないということになります。頭の中からあの光景を払拭できないものでしょうか。羊飼いたちは、そうとう野蛮な風体ではなかったのでしょうか。羊の群れもベツレヘムに向かったのではないでしょうか。
 
町に羊の大群が入ったとすれば、大騒ぎです。また、そもそもそこをどうやって探し当てたのでしょうか。一人の赤児を目指して、きっと差別を受けていた側のいかつい男たちと、羊の大群が町の中をうろうろしている様子が目に浮かびます。いったい何事かと評判になったのではないかと想像します。夜なら城門が閉じられて町へは入れないはずですから。
 
野宿の場は、城壁都市の外の荒野のようなところであったと思われます。そこを夜、主の栄光が辺りを照らしたのだそうです。客観的な光であったら、町からは見えなかったのでしょうか。主観的なものであったら、それは羊飼いたちに起こった集団幻想のようなものでしょうか。人が、国家という集団幻想を見ているのと同じように。
 
クリスチャンも、主の栄光という集団幻想を共有しているのかもしれません。教会は、幾多の絵画や彫刻によって、一定の聖書物語を刷り込まれてきたのだ、とも考えられます。そういう眼差しがあってもよいかもしれません。思い込まされていることを捨象して、聖書の記事を見ることができたら、しかも信仰することができたら、と思わされます。
 
メッセンジャーは、これは喜びである、と告げました。関係者は苦難に満ち、町の幼子はマタイによると虐殺されます。地には平和あれ、という天使の賛美は、いまだ世界に達成されてはいません。すべての民に喜びが与えられるはずなのに、御心に適う人にしか平和がないと言います。それを多くの人々が聞きました。私たちも、いまここで聞くのです。


Takapan
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