羊飼いたちのクリスマス

チア・シード

ルカ2:8-20   


ベツレヘム郊外ということでしょう。エルサレムへ犠牲の動物や食糧が供給されていたと思われます。羊飼いたちが野宿をしていました。冬ではないと思われますが、それよりも、この羊飼いたちの人数はいかほどであったことでしょう。聖書は描いていませんし、知る限り誰もそのことを問題にしていません。あれほど中東の家屋構造から家畜小屋の実情を図示して見せたケネス・E・ベイリーですら、羊飼いが何人であるかには教えてくれないのです。
 
羊飼いは、身分が低いとされていました。安息日が守れないから、との説明もよくありますが、恐らく暴力的で教養のない者たち、賊とでも呼ぶべき存在であったものと思われます。私たちは牧歌的な優しい人々を想像しますが、たぶんもっといかつい怖い人たちであったと考えるほうが自然です。
 
羊飼いたちは、天の大軍の賛美を見聞きしたといいます。人数は知れませんが、○○組とか○○一家とか呼ぶべき集団かその一部であるとすると、この天の賛美はそれなりに大きな規模であったことでしょう。すると、他のグループもどこか遠くないところにいたでしょうから、この大空の出来事を、他に目撃した者たちがいたはずです。少なくとも、客観的な出来事であるならば。そこで、こうした呼びかけや賛美は極めて主観的なものであったと推測されます。神は、預言者などへも、個人的に呼びかけました。
 
幼子イエスはやがて、良き羊飼いという立場になります。イスラエルの国を誤って導いたのが主を忘れた王や宗教指導者たちだと預言者たちがこぞって批判したように、イスラエルには良き羊飼いが必要とされていました。イエスはそうなるべきだという見解をヨハネ伝はしきりに訴えました。差別されていた羊飼いたちのように、神から遠く見捨てられたような者として、イエスはこの地上を歩みました。日の当たらないところに出向き、光を投げかけ、聞いた者は光であるのだと声をかけました。イエスのそういう姿をこのエピソードは予告しているように見えます。
 
ダビデの町とはエルサレムのこと。ではどうしてベツレヘムへ行こう、と羊飼いたちは言ったのでしょうか。ルカは直前で、「ダビデの町、それはベツレヘムと呼ばれている」と記しています。マタイでは、このベツレヘムがミカの預言した町として登場していたのですが、ルカは唐突です。ルカもミカ書を意識していたのでしょうか。しかし果たしてこの書き方で、テオフィロが引っかかりなく読めると思ったのでしょうか。
 
ミカ書5章の初めをよく読むと、そこでベツレヘムは最も小さなものとして描かれが、偉大なエルサレムと対比されています。ユダの家系からダビデが出たのに対し、最も小さなつまり若いベニヤミンの家系からは、初代の王サウル、預言者エレミヤ、そして使徒パウロが出ています。ミカは、ダビデ家の王が周辺の帝国に潰されそうになっていたアッシリアの時代に預言しましたから、大きな者でなく小さな者を愛する神の伝統を用いて、国を救うヒーローの登場を、小さな町に期待したのでしょうか。また、ルカはこの後パウロの意義を重要視しますから、そのパウロの系図も意識したのかもしれません。
 
救い主は、羊飼いたち、「あなたがたのため」であると告げられました。しかし、その喜びは「民全体」に与えられるともされていました。イスラエルの民という意味でもありましょうが、ルカの手によることを考えると、これは異邦人を含めすべての人間へと及ぶことが予想されます。
 
天使の歌は天で響きました。神の栄光はいと高きところでした。それに対して人の住むのは地であり、卑しい地の民でイメージされる如く、汚れた弱い人間たちでした。神と人との間には、超えられない溝、境界がありました。しかし、民を罪から救うというこの救い主の誕生は、この分断された世界に架け橋を与えることになるのです。イエス・キリストという一点においてのみ、2つの世界はつながることができるのです。
 
飼い葉おけは、必ずしも貧相なものではなく、暖かな囲いを保証するものであったかもしれません。そこに寝かされていた乳飲み子に会い、羊飼いたちは「人々」に経緯を話しています。マリアとヨセフのほかに、その恐らくは農家の人々がいたのです。出産そのものは多くの人の手を借りてなされ、ただそれが宿でなく通常の客間よりさらに暖かと思われた家畜部屋、つまり別に建てられた小屋などではなく洞窟つながりであろう家畜のいる場所であったということではありますまいか。
 
この不思議な話を、意味が理解できないでも、そのままに心に納めていた人がいました。ルカは、それがマリアだと記録しています。意味の分からないことでも、反発せずに受け止め、結論は出ないまでも思い巡らしていること。どだい最初の受胎告知からしてそれなしでは生きられないマリアでしたが、私たちも不意に起こる予想外の出来事について、神の思いは何かと思い巡らすとよいのでしょう。それにしても、怖い羊飼いたちが入ってきたとき、どんな緊張感がそこにあったでしょうか。彼らが賛美しながら立ち去って行く姿も想像してしまいます。


Takapan
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