少年イエスと過越祭

チア・シード

ルカ2:41-52   


少年期のイエスを記録する記事は、福音書には乏しく、ここにしかありません。他の伝説で奇想天外なものがいくつかある程度です。しかし、エピソードとしては一つしかなくても、なかなかの分量です。詳細に物語っているという意味では、しっかりとした内容が伝えられていると見てもよいのではないかと思います。
 
イエスは、十二歳。少年から大人への境目とでも言いましょうか。時は過越祭。ここまでイエスの誕生にまつわる記事は、暦のどこなのかを特定する要素がありませんでした。けれどもこの少年の記事は、過越祭という、はっきりした場面を伝えています。それは、イエスの十字架の死を暗示するものとなっているかもしれません。
 
ヨセフもまだ健在です。祭りの帰路での出来事、イエスはエルサレムに残っていました。両親がそれに気づかないという不思議な事態も、いろいろ説明はされますが、要はイエスが人々の道連れの中にはいなかった、ということであり、神殿という父の家にいること、あるいは父の業の内にいるということを証しするのが、文章の目的だったのでしょう。
 
「両親」という表現が繰り返される中、「父」という表現がイエスの口から出ているところを、重く見るべきでしょう。これを心に留めたのが「母」であったことも興味深く、神と人との対比が立体的に描かれているようにも感じられます。両親は、イエスの言葉の意味が分かりませんでした。神の言葉は、親とても自動的に分かるわけではないのです。
 
過越祭のとき、やがてイエスの言葉の意味の分からぬ者たちによって、イエスは十字架刑へと追い込まれます。そのエルサレムにおいて、少年は何を議論し、また答えていたのでしょうか。ここで、イエスを捜す必要などなかったかのような、少年イエスの言い方がありますが、私たちもまた、イエスをどこに捜しているか、問われているような気がします。
 
私たちは、人々の中に、イエスを捜してはいなかったでしょうか。人々の中に、イエスはいるのでしょうか。また、何を心配して捜していたのでしょう。この後少年はナザレに戻り、両親に仕えたと書かれています。神と人から恵みを受けて、知恵が増し、大きく成長していくイエスの姿は、しばしの間、微笑ましく見えていたかもしれません。


Takapan
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