シメオンとアンナの預言

チア・シード

ルカ2:22-38   


律法に則って、イエスは神殿の儀式に連れて行かれました。それまで生まれて八日目の割礼などの措置もあったことでしょうが、清め明けの儀式そのものが、神への献げ物として扱われたことには注目しておきたいものです。初めての男子は献げられる。この子ほど、その真意に相当した子はいないでしょう。律法に従い、律法を完成させ、そのことでなぶり殺しにされたのですから。
 
献げ物の貧しさが描かれています。鳩とは貧相なものでしたが、律法上認められたものでした。鳩というと、ノアの箱舟から平和を伝えた鳩の役を、イエスが担うことにつながるかもしれません。血塗られた平和となります。そうしたことを見てきたルカは、どんな思いでこの記録を綴っていたでしょうか。その心理も少し興味があります。
 
ここに二人の老人が登場します。ルカ独自の資料に基づくもののため、ここに書かれたことがすべてです。シメオンが老人かどうかは不確定ですが、メシアに会って命も果てると言うところから、老人と想定されているのです。それにしても、この子がメシアであると聖霊に教えられているというのが、いくら預言者であったにせよ、驚きです。
 
ここに啓示の光、神の栄光を見てとっています。また、ルカの神学が反映されてくるものと思われ、聖霊の導きや異邦人の救いなど、多くの伏線がここに置かれているとも言えます。シメオンはマリアに、この子の運命を預言しています。この子は、人々を倒したり起き上がらせたりすることへと向かうと言います。審きを指しているのでしょうか。人々の心にあるものが暴露されてしまうでしょう。しかしそのために、母マリアは心を剣で刺されることになるのです。
 
女預言者アンナも描かれています。神殿にいた84歳の女性です。簡潔ですが詳しくその生涯が紹介されています。7×12である意味がこめられているかどうかは分かりませんが、神の数である7、人の数を満たす12といった完全な数の積は、偶然ではないように思われます。この預言は完全なものとなります。夜も昼も神に仕える女性を通じて、エルサレムの救いを待つ人々に、イエスの話が告げ広められます。
 
しかし、マタイ伝と併せると、これはどうなのか、とも思います。ヘロデに命を狙われ、隠れていなければならなかった身です。これを調和するためには、やはり博士の訪問を遅らせるしかないでしょう。ルカはここで明確に生まれて一週間後の出来事として記していますから、時代不確定なマタイの記事と、二歳以下の虐殺とを併せて考えると、そのあたりに落ち着きそうです。
 
ともあれ、こうして福音が拡がっていきます。この救いは、贖われるという意味が含まれているように見受けられます。ローマに支配されているイスラエルが買い戻されるということをも含めているということです。ルカは、エルサレム神殿の崩壊を知ってこれを書いています。それもいつか建て直されると考えていたに違いありません。
 
親子三人はナザレへ戻ります。こうなると、マタイとのつながりは益々難しくなりますが、ルカの聞き及んだイエス伝として受け止めておきましょう。清めの期間は男児の出産から40日を数えたはずです。イエスの小ささが偲ばれます。この世に小さな者として現れた救い主は、実は世界を支配する王でもありました。小国イスラエルの矜持が、全世界の救いを担うことと、重なっているのかもしれません。


Takapan
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