不合理な旅立ち

チア・シード

ルカ2:1-7   


皇帝の勅令により、人々は登録のために、それぞれ自分の町へ旅立ちました。一斉にこのようなことが起こることがありうるのでしょうか。歴史的にどうなのか、という研究もあります。住民登録により、人は自分のアイデンティティを確かにする機会が与えられます。福音書を前に、いったい自分は何者なのか、を私たちは意識させられる必要があるのです。
 
でも、ルカは何かを伝えたかったのです。自分の町へ旅立った、と先ほど読みました。何かお感じになりませんか。「住民」登録のために、「自分の町へ旅立った」というのです。現に住んでいる場所をから遠く旅立って、「住民」登録をするというのです。戸籍の本籍地ならば分かるのですが、住民票のために遠くに旅出すのが、私にはよく分かりません。
 
どうして住民なのか、この素朴な疑問に、誰か答えてくれないかと探しましたが、まだ見つかっていません。ベツレヘムに住んでいないのに、ベツレヘムで住民登録をするのは何故か、ということです。部族に関わるのでしょうか。身重のマリアと、気に馬小屋と決めつけられがちな家畜の間ばかり注目され、飼い葉桶にしか光が当てられません。
 
いったいどうして2人は、ここまで来なければならなかったのでしょう。登録だからというのですが、「住民」とは何のことをいうのか、教えてほしいものです。しかも「最初」というからには、この後も同様のことが行われたと推測するしかありません。住んでもいない所に何どもはるばる行かされる羽目になるわけです。どうしてなのでしょう。
 
イエスは、こうしたどたばたの中で産まれたのだといいます。宿屋はごった替えし、客間は満杯であり、妊婦といえども優遇されはしない混乱。出産したのなら、産婆はどこから手配したのでしょうか。衛生状態はさほど問われなかった時代であったかのかもしれませんが、あまりに無謀な出産だったのではないでしょうか。
 
この不合理な説明の中、私は聖書の説明とは何かを考えます。人々は、自分の町へ旅立っていました。私も旅立つよう促されます。私の町とはどこなのでしょう。我らの国籍は天にあり。神の国にこそ籍があり、そこにこそ自分が永遠に住まわせてもらえる住まいが待っていて、神の定めた時に、私はそこに旅立つことになっているのでしょうか。


Takapan
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