ルカの描くひとつの真実

チア・シード

ルカ2:1-7   


どれほど多くの人がここを読み、また覚え、研究されたか知れません。この証言の歴史性についても、ずいぶんと調べられたことでしょう。研究結果、ルカの記述は歴史的に怪しいということになっているそうです。人の目がこれほどこの箇所に注がれるには理由があります。聖書だという理由のみならず、これがひとの救いに関わるからです。
 
キリストが、この世に生まれたということが、救いの有無にまで直結する問題であるのです。キリストが世に現れたという記事が信用できるのか否か。取って付けたようにマタイとルカが物語を付け加えたのですが、それにしても執筆の時代があまりに空きすぎています。イエスの誕生から、へたをすると1世紀を経ようかという頃かもしれません。
 
今私たちが、戦前の歴史を掘り起こすのにも苦労します。提示されては批判の矢を浴び、諸説生じることを覚悟しなければなりません。不安定で激動する二千年前のユダヤにおいて、歴史を描くというのは、並みの努力ではできなかったことでしょう。もしかするとルカにとりそれは、今の私たちの「歴史」という意識ではなかったかもしれません。
 
そもそもが、私たちの思う「物語」として書かれたのではないのか。あるいはそもそも私たちとの、テクストに対する意識が、全く異なっている可能性もあります。私たちの言う「物語」であったのなら、それは私たちの思う「歴史」という感覚とは異なっているわけです。でも、だからといって、それが嘘であるという決めつけもおかしいと思います。
 
例えば昔話にしても、何かの事件のことを今に伝えるものである場合があるでしょう。何かしらの史実を背景にして、語り伝えられたものを、私たちの感覚でいうフィクションと片付けてよいとは思えないのです。ルカの物語もまた、何か史実通りではないかもしれませんが、確かな真実を伝えるものがあると見るのが自然ではないかと考えます。
 
人は信仰の中で、いったい何を大切にしてきたのでしょう。伝えられてきたものを受ける私たちは、そこから何を受け取ればよいのでしょう。ルカはここでは、ナザレとベツレヘムとを結ぶ線を表面化しました。ベツレヘムはダビデの生まれた町。再びユダの国を再興するべき救い主は、ダビデの再来であるために、そのしるしが求められたと思われます。
 
ダビデの子孫としてのヨセフとマリアが、このドラマの使命を負いました。正式な宿の客間には受け容れられませんでした。誰が産婆を連れてきたのか、そんなことをルカは描写しません。政治的な背景説明すら、何らかの飾りであるのかもしれません。でも、イエスが初子であったことは、神のものという意味でも注目すべきだと感じました。


Takapan
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