出来事は起こっている

チア・シード

ルカ2:1-7   


幾度となく聞いた、クリスマス物語です。クリスマスの度に朗読もされます。けれどもここへくるまでに、ひとつの過程がありました。洗礼者ヨハネの誕生をたっぷりと描いたルカでしたが、そこにおいて、ルカはもしかするとマリアの姿をこそ描きたかったのではないかと考えます。そのマリアから、いまついにイエスが産まれます。
 
歴史的にこの住民登録などがどうなのだ、という議論もあります。ルカの時から見てもう百年近く前の出来事です。いまのような情報保存や資料保管もなく、あったとしても参照などできない当時のことです。こうした問題に拘泥してしまうのももったいない気がします。歴史研究者はどうぞ。それも役立ちます。しかし、イエスが現れた、それでよいでしょう。
 
ベツレヘムからメシアが現れるということは、すでに一般常識だったと思われます。旧約の預言としては地味ですが、キリスト教会ができたときに、大きく取り扱われるようになったのでしょう。教会の教えが定まった中で記すということは、ルカのような説明が必要になった、というだけのことではないでしょうか。
 
臨月のマリアを連れて旅をするという事態は異常です。あるいはまだ半ばの頃からの長い旅であったのか。謎は尽きませんが、ルカはわざわざ「初子」と指摘します。それは当たり前のことですが、初子ではない兄弟たちがいて、教会の重要なポストにいるなどしていたから、それらの人物ではないよ、というサインなのではないかと思います。
 
馬小屋というよりは、客間扱いではない、家畜も同居しているような空間が宛われたということではないでしょうか。ここでヨセフが登場します。すでに許婚として、受胎告知の場面でも名は挙がっていたものの、ヨセフを通じてのストーリーらしきものは何もありませんでした。尤も、それはマタイでも言葉は発していないのですが。
 
ヨセフは何も語りません。ただ行動します。しかしとにかく、行動するのです。静かな信仰を私たちはここに見るような思いがします。口先だけの信仰は感じません。マタイのようにダビデの家系であることは系図にはしませんが、ヨセフの由緒として説明を加えます。預言の文化の中に位置付けようともしていないようです。
 
ルカは以下、美しい物語を綴り、クリスマスに読まれるに相応しい場面となりました。簡潔な流れの中に、神の出来事が淡々と起こり、流れていくように見えます。私たちの身の回りにも、こうした出来事が実はすでに始まっていやしないでしょうか。大事件ではなくとも当人には大きな出来事が、もうすでに。いや、気づいていないものなのですが。


Takapan
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