エルサレムからエルサレムへ

チア・シード

ルカ24:44-49   


「エルサレムから始めて」(24:47)に注目します。ルカによる福音書はここまで、エルサレムを目指す旅を描いてきました。イエスの眼差しは、ただエルサレム一点に向かっていました。正確には、旅はエルサレムから始まり、エルサレムに戻ってきました。幼子イエスは神殿に捧げられ、その後ガリラヤへ行っていたからです。
 
神の計画は、このエルサレムからエルサレムへの道で一部が成就しました。そしてここからまた新たに、全世界へ福音が拡がってゆくストーリーが始まります。使徒言行録で描かれることになるその後のストーリーではありますが、パウロの軟禁でそれはぷつんと終わります。その先の歴史は、いまなお進行中であり、私たちが描いていることになっています。
 
ところでこのテクストで、エルサレムから始まったのは、何でしょう。実は解釈に幅があるようです。訳し方が邦訳により変わっています。フランシスコ会訳は、悔改めがエルサレムから始まる、としています。他の新しい訳は概ね、弟子たちが証人となるのがエルサレムからである、と理解しています。かつて節が区切られたときには、前者の理解だったのでしょうか。自然な流れは後者であるようにも見えます。
 
もしかすると、どちらにも取れるようにに、ルカが「エルサレムから始めて」を置いたという可能性も考えられます。このイエスにより、旧約聖書は人間の目の前の現実となり、律法も預言書も詩編も、神の計画の中にあったことが見える形で現れてきました。さらにこれからもそれは起こることでしょう。
 
イエスは弟子たちのヌースを開きます。聖書というものをがっちりと、誰にでもつながるような考え方で設置することができるように、いわば理性の心を閉じないように、開いておいたというのです。教義の言葉がそこに置かれ、読者の信仰すべきことが短くまとめられていくテクストは、詳しい説明よりも、簡潔なまとめを優先しますが、ニュアンスは選ばれた言葉によって伝わってきます。
 
聖霊の降臨を予告すると、ルカは一度イエスを劇場から退場させます。使徒言行録の初めではここをクロスオーバーさせて幕を開けることになりますが、「エルサレムから」の一言は、その時実はかなり効いています。そこは神殿でした。ルカは「父の家」と福音書の初めでこれを告げていました。イエスの眼差しは、旅の途中もつねにこのエルサレムへ向けられているように描きました。
 
イエスはそのエルサレムで殺され、復活させられました。そして一旦この地から離れたのですが、いつか再び来るその時まで、弟子たちがこの福音を告げ知らせるのだと命じます。エルサレムから伝え始めるのだという言葉は、私たちに同時に、エルサレムに目を向けよと教えているかのようです。私たちにとり、エルサレムとは何ですか。そこで何があったのですか。


Takapan
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