イエスの名は謎のまま出会った

チア・シード

ルカ24:30-35   


エマオへの道。なんとも叙情たっぷりの物語です。ルカ独自の復活物語ですが、とてもよく描かれています。2人の弟子のうち1人はクレオパという名まで伝えていますが、人物像は分かりません。今日光を当てるのはこの物語の終わりの場面です。正体不明の人物が、聖餐の装いを示すところから始まります。食事の席がそこにありました。
 
邦訳聖書で残念なところは、この物語で終始「イエス」という文字を出していることです。実は15節と19節のほか、「イエス」というふうに原典では書かれていないのです。それは「イエス御自身が近づいて」来たというタネ晴らしと、「ナザレのイエスのことです」と弟子が質問に答える場面だけが「イエス」の語をもち、他は「彼」か動詞で主語を示すのみ。
 
実質、最初の「イエス御自身が近づいて」来たことだけが、イエスの存在を告げる文であるに過ぎず、展開上「イエスが言った」というような表現は何ひとつありません。初めにその正体はこうして明かされている訳ですが、弟子の2人は、出会ったこの人物が謎であるままに同行し、話を進めていきます。非常に緊張感に溢れる場面ではないかと思います。
 
この感覚を懐きつつ、私たちも読んでいきたいものだと考えます。彼はパンを取って渡したので、2人は彼を知りました。シンプルな表現が原文にあり、ここでも「イエス」だとは書かれていません。それから彼は消えて見えなくなります。2人がエルサレムに戻ると、使徒たちは「主が」復活させられてシモンに現れたという話でもちきりでした。
 
そこへ新たに2人の証言が加わります。彼が知られた経緯を物語った、そのように場面は結ばれます。殊更に「イエス」だと連呼することはありません。日本文ならば「彼」よりもむしろ「あの方」でもよいでしょう。原文も代名詞が多用されます。ところで私たちも、この2人のように、聖書に新たに証言を加えたいものだと強く思わされました。
 
パンを裂くのはルカでは言行録で信徒の交わりの鍵になる行為だと言えます。パン裂きを見たとき、「あの方」だと気づくのです。それまで顔を見ていたのにどうして気づかないのか、というような議論はやめておきましょう。私たちは、それがイエスだと日常ではなかなか分からないぼんくらなのであり、ある時ハッとそれを体験することが度々あるからです。
 
私たちも神の出来事を、いまもどこかで見ているはずです。だのに「あの方」によるものだと気づいていないのです。後になってから、ふと「心が燃えていたではないか」と思い返して驚くのです。この2人のように、「時を移さず」エルサレムの仲間のところに戻ってそこに加わり、喜びと驚きを分かち合いではありませんか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります