弟子たちの視点との違い

チア・シード

ルカ24:13-32   


美しいエマオ途上での出来事。ルカ特有の記事で、光と影のレンブラントなど絵画の名作も生んだエピソードです。いったいルカは、どのようにして、どこからこの史料を得たのでしょうか。ともかく私たちはこの物語に魅了されます。そしてイエスの優しい眼差しをここから受けるような気持ちになります。
 
二人の弟子がいました。一人だけクレオパという名前が記されています。クレオパトラに近い名前です。もう一人はルカではないかなどと豊かな想像をする人がいますが、不問にします。ルカはペトロだけが墓に向かって走ったように書いていましたが、この弟子たちは、現れたイエスに、女たちに続いて仲間が何人か墓に走って行ったと話しています。
 
こうした話をしていることから、この二人は、それなりにイエスに近かったであろうと思われます。近づいてきた人物がイエスであるとまでは分かりませんでした。思えば不思議なことです。ヨハネによる福音書でも、マリアが園丁と思い込んだり、湖でイエスとなかなか気づかなかったりして、弟子たちはいったいそれまで何を見ていたのだと言いたくもなります。
 
ルカでは、復活のイエスに出会ったのはこの二人が初めてであるかのように描かれています。女たちや仲間たちは、空の墓を見たに過ぎません。それでこの二人がイエスに出会ったことを報告し、使徒ないし仲間たちに知らせている時に、皆の真ん中にイエスが立ったと記録していますが、このときにはそれがイエスだと誰もが認めています。どちらも不思議です。
 
パンを裂き、手渡したそのときに二人の目が開かれた、その決定的な出来事に、より注目しなければなりません。この二人は、イエスがイスラエルを解放してくれると期待していたのでした。ペトロを仲間と理解しているならば十二弟子たちもこの「私たち」に含まれますから、弟子たちは誰もがイスラエルの解放のためにイエスに従っていたことになります。
 
イエスの癒しの業と救いの言葉を、弟子たちの眼差しは政治的な目標にどうしても置いていたのであり、他方イエスは別のところに向けていました。神の国という言葉が、政治的なものではなく、イスラエルの神の支配がもっと全人格的に、また永遠という尺度の中に置かれ、十字架と復活の福音と世界宣教へ向けて実現するものと考えていたと思われます。
 
ペトロたちを含め、人間は当時それを理解することができませんでした。愚かであり心が鈍い、それは悪口でなく、事実そうだったのです。預言者の言葉が信頼されていなかったとルカはイエスの口を通してこれを評価しています。メシアつまりキリストとは何だったのか。キリストはなおも先へ行こうとします。いえ、待って下さい。
 
二人が無理にイエスを引き留めた結果、二人は知ることになります。キリストが行こうとする目的に気づきます。それさえ見えれば、もうイエスの体そのものは必要ありません。復活のイエスが、人間の思惑とは違うところを目指しているとさえ気づき覚るならば、霊が燃え目が開け、裂かれたパンなるイエスと出会うことができると知るのです。


Takapan
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