イエスの姿をどう見ているか

チア・シード

ルカ24:13-32   


エマオという村への道の物語は美しい。私たちの頭には、あのレンブラントの絵が浮かんできます。仄暗い画の中に、淡く輝く光がキリストを照らします。私たちは二人の弟子と共に、その場に佇むことでしょう。復活の日の夕刻となる頃、クレオパと名の分かる一人を含む二人の弟子が、暗い顔をしてエルサレムを離れ、村へ帰ってゆきます。
 
「力のある預言者」を二人は慕っていました。とても過越の祭を祝うどころではありません。後を見ると、イエスが墓から消えた、と言うことは、女たちと使徒たちから二人は聞き知っていたようです。女たちは二人の天使から聞きました。使徒たちは、その報告を耳にしても「信じなかった」が、ペトロは墓へ走り、その事実を確かめました。
 
イエスの出来事について、二人は「話し合い、論じ合っていた」のです。すると、当のイエスが「近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」のでした。イエスの方から近づいて来て、共に行きます。私たちは、わくわくします。しかし二人は、「目が遮られて」いました。復活のイエスをイエスとして認識できないことが、福音書にはよくあります。
 
復活のイエスの姿は、それまでと何か違っていたのではないかと思われます。イエスは二人に、「その話は何のことですか」と尋ねました。分かっていて問うのでした。神からの問いかけは、しばしばそうやって試すように向けられます。私たちは応えなくてはなりません。クレオパは、教会のメンバーとしてよく知られた存在だったのかもしれません。
 
イエスの問いかけに、適切に応えたようにも見えますが、イエスは「愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」だと言いました。どうしても、分かってもらわなければならないことがあるということのようです。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはず」だったのです。無駄に死んだのではありません。
 
二人は、「遺体が見当たらない」ことや、「イエスは生きておられる」という天使のお告げも聞き知っていました。宿泊する家に入り、イエスが「パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった」とき、二人は目が開かれます。だがイエスの姿は見えなくなります。二人には、復活の確信が残りました。私たちは、イエスの姿がどう見えているでしょうか。


Takapan
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