あなたはどこにいるのか

チア・シード

ルカ23:32-43   


「ほかにも」と始まる場面で、2人の犯罪人が紹介され、イエスと同時に十字架刑に処せられたと分かります。私たちの目は、この2人に向かいます。ゴルゴタで死ぬのはイエス一人ではなかったのです。このイエスは中央であったことが強調されます。これらのことは、マルコやマタイのみならず、ルカもヨハネも同様に記録しています。
 
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という有名な言葉は、文献学的には、最初のルカ伝にはなく、その後書き加えられたことが確実です。それで聖書のオリジナルにはない、と価値を下げられることがありますが、いったい聖書のオリジナルとは何か、聖書とは何か、もっと議論が必要だろうと思われます。
 
この言葉に、どれほど多くの人の魂が救われたことでしょう。人の涙や胸の痛みをもたらし、神と出会う機会を無数に生みました。いまの聖書では〔 〕で囲まれ、怪しまれるようになっていますが、先入観をもって読まねばならないとしたら、不親切であるようにも考えられるでしょう。聖書は古いものでないと意味がないのか、問われます。
 
32〜37節に特徴があることに気づきました。まず「2人の犯罪人」が引かれていきます。次に「人々」が三人を十字架につけます。「イエス」は彼らを赦したまえと祈ります。「人々」はイエスの服を分け合います。「民衆」は立って見ています。「議員」たちは嘲笑い、皮肉をぶつけます。「兵士」たちも侮辱して、王なら自分を救えと言います。
 
お分かりでしょうか。主語が次々と変わっていくのです。これを映像化するならば、カメラはひとときもじっとしていません。次々と周辺の画を切り換えて、それぞれの人が何をしているかを見せていきます。この場面にいる人々のそれぞれが、どんな言動をとっているのかを描くのです。十字架の周りで、人は何をしていたのでしょうか。
 
もちろん、これらの人々は、私と無関係ではありません。この中のどれが私なのでしょうか。私は、どこにいるのでしょう。そう、神がアダムの最初の罪のときに、アダムを呼んで言ったあの言葉が迫ってきます。「あなたはどこにいるのか」との問いかけに、私が応えるように迫られている、それがこの十字架の場面だと思うのです。
 
立って見つめる傍観者の態度をとっていないでしょうか。侮蔑の言葉を浴びせているのでしょうか。嘲笑っていやらしい言葉をぶつけているかもしれません。それともイエスその人を十字架につけた張本人であるのでしょうか。かつて信仰を与えられたときには感動していた十字架の場面が、いつしか慣れっこになり、傍観してはいないでしょうか。
 
自分が何をしているか知らないのだ、とイエスは苦しみの中で祈りました。これらの人々の中のどれであるか無反省であるとするなら、まさに私は自分が何をしているか分からないのです。そう、自分が何をしているか、どこにいるのか、私たちはあまりに分かっていません。そうして傲慢になり、いつしか神に背を向ける道を走っていくのです。
 
ルカはこの後、イエスの両側で十字架につけられた2人に焦点を絞っていきます。イエスを罵る者と、イエスは悪でないと信じ、救いを求めた者とに、神の裁きが大いに異なることを示します。あなたはどこにいるのかという問いかけは、結局のところ、この2人のうちのどちらをおまえは選ぶのか、どちらになるのか、と迫っていたのです。


Takapan
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