頼られる弟子

チア・シード

ルカ22:24-34   


弟子たちの間で、誰がいちばん偉いかなんて議論が始まりました。イエスは怒り、そんなことを言ってはだめだ、とまた戒めるんだぞ。クリスチャンの思考は、ついそのように走ってしまいます。ところがルカがここで描くそのシーンは、どうやら違います。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」
 
聞き違えではないかと思いそうです。イエスも試練に遭う、あるいは誘惑に遭うというような言い方です。そればかりでなく、弟子たちが一緒に踏みとどまってくれた、と褒めるような言葉です。この言葉が出る前にも、異邦人の間では王が支配的であるが弟子たちの間ではそうなるな、仕えよ、とやや柔らかく教えているだけです。
 
場面は、主の晩餐が終わったばかり。この後、一同はオリーブ山へ出かけます。ルカの場合、イエスのこの時の祈りには、マルコやマタイとは違い、三人のみならず皆がイエスの祈りの場に伴い、眠っている指摘も穏やかです。それでもイエスの祈りはやはり、その心の揺れを表現しています。絶えず一緒にいてくれたという言葉の重みを覚えます。
 
イエス自身、仕える者となりました。それを明らかにしたわけで、異国の王のように支配者として君臨しているのではありません。弟子たちもそのようでいよと教えています。このようなイエスの姿に倣え、と。しかしそのイエスですら、試練あるいは誘惑を受けてきました。ここでもまたその一種の弱さを祈りで表しています。
 
それでも、このイエスには王権が与えられていると言います。その権威をそのまま弟子たちにも委ねることを宣言しています。ルカもまた、マタイほどではないかもしれませんが、使徒たちに授けられた権威は大きく重いものとして描いています。使徒として神の国の食卓で主と共にいて、王座にすらいてイスラエルの部族を統率するとまで言うのです。
 
誰が偉いか、ではなく、すでに偉いのです。いま私たちが、さあ弟子たちが叱られるぞと構えたのとは違い、イエスは使徒たちに高評価を与えている場面ではないでしょうか。この流れのまま、ペトロのミスの予告をしますが、立ち直ったときに、とどこか優しく励まします。剣の持参にも戒める口調が感じられません。ルカの視点を見失ってはいけません。
 
もしも私たちクリスチャンがいま、弟子たちの中でいちばん偉いのは誰かと言い争う弟子たちは愚かだよね、などと考えていたとしたら。そのときは、実はその私たちこそが、ここで弟子たちをいつの間にか自分より下に見て、偉いのは誰かを比較して見ていたことになります。自らをまだましと見る愚かな見方です。仕える者ではなくなっているかもしれません。


Takapan
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