苦しみを受ける前に

チア・シード

ルカ22:14-20   


主の晩餐という小見出しが、新共同訳以来付せられています。目安になって役立ちます。しかし、このタイトル以外のものが目に入らなくなる虞があることも、気に留める必要があるでしょう。食事の準備を誰がしたのか、「時刻」とはどう定められていたのか、そんなことも、ふと気になってしまいます。しかしより重要なのは、イエスの言葉の初めです。
 
定刻に席に着くと、イエスはまずこう切り出します。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」と言うのですが、これはルカ特有の記事です。他の福音書は、なんとなく食事に入ってしまっており、イエスは話の本題にすぐに入っているように描かれています。
 
ルカだけが、過越の食事の意味とそこへ至るまでのイエスの心中を知らせている形になります。「神の国」が来て神の過越が成就するまで、「私は」二度とこうすることはない、とイエスは告げました。「私」とはイエスのことです。イエスだけが、しばらく間を置くのですが、弟子たちはこのことを世で繰り返して行い続けることになります。
 
「私の記念としてこのように行いなさい」とイエスは命じました。ここまでイエスがこの時を強く願っていたこと、その胸の熱さは、ルカならではの描写です。エルサレムを目指し、ガリラヤからここまでイエスは歩いて来ました。この食事をすることが目的であるかのように、ここまで来ました。しかし本当の目的は、まだ先にありました。
 
このパンとぶどう酒の食事を、神の国での食事へと結びつけることです。この過程の中に、そして唯一の重大なエポックとしてあるのが十字架でした。イエスの人としての目標はそこにありました。復活は、イエスが自らできることではなく、神の業です。地上生涯で最後の、自ら企画するチェックポイントは、いまラストコーナーに差しかかりました。
 
胸が熱くなるのも当然です。しかも、これ以上ない苦しみの死を覚悟するというのは、想像を絶するものがあります。「苦しみを受ける前に」にも、「もはや二度と」にも、弟子たちはもはや反応しません。何も分かっていないに等しいのです。イエスの心中はどうだったでしょうか。イエスは私たちと「共に」、いまここにいます。


Takapan
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