献金のことなのか

チア・シード

ルカ21:1-4   


教会組織の経済収支は、まず献金に基づいて成立します。ドイツなどのように、税金という形で納める制度の国もありますが、それも教会員に対する課税ですから、ここでいう献金という部類に含めて捉えることにします。なんとも近代的な言い方ですが、宗教法人はおよそ世界的に、活動は営利とは見られておらず、税制上の優遇を受けています。
 
しかし、実際上相当な営利を得ているにも拘わらず課税を免れるという、悪用も入り込む余地があり、現実にあるように見受けられます。信仰という上辺により隠した詐欺行為により、自主的な献金だと思わせて大金を集め、それを政治的に利用する団体の仕業が、ようやく当の政治家たちにも認識され始めているのが、宗教に疎い日本の現状です。
 
キリスト教界は、この報道をどこか他人事のように見ているように感じます。あるいは、ただ悪者が処罰されるのだと高みの見物をしているようにも。しかし、一般のキリスト教会においても、騙されたと言って、これまでの献金を返してくれというトラブルが、なかったわけではありません。構図としては、先のものとあまり変わらないのかもしれません。
 
組織的で悪質な献金の強要ではなかったとしても、信者サイドの心理としては、さほど違いがないと私も思います。貧しい額の献金だと世間から見られようとも、このやもめの2レプタの献金は、当人にとっては財産のすべてであるようなものでした。イエスは、その心に気づきました。見かけの数字だけで、その心を計ることはできないのです。
 
教会にとっては、有り余る中からわずかなものを献げたとしても、その額が多いほうが実用的であるはずです。しかしイエスにとっては、教会組織への貢献ではなく、神に対する信頼の方こそ尊いものだということは明らかでした。生活費全部を神への箱に献げたのです。生活すべてを神に委ねたのであり、人生を神に献げたということだと思うのです。
 
命を神に委ね、神が命を支えてくださると信頼していたとすれば、これこそイエスが、誰よりもたくさん入れたのだと見たことになるでしょう。自分のために必要な分をとっておき、残りから神に献げたのではないのです。この聖書箇所は、献金の教えなどではないと思います。あなたの人生が神に基づいているかどうか、を問うているのです。


Takapan
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