回し者とは誰のことなのか

チア・シード

ルカ20:20-26   


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というよく知られた言葉がある。私たちの目がそこへ行く。そしてイエスの頓知の効いたような、いや失礼、神の知恵を称える。そのように聖書を読んで悪いはずがない。だが待てよ。ここに回し者がいた。イエスの命を狙いチャンスを窺っていた律法学者や祭司長が回し者を送ったのだ。
 
イエスはたちまちそれを見抜く。悪い魂胆があることなど、お見通しだ。ふん、ざまあみろ。私はこの様子を、恰も舞台を眺めるように見ている。しかし、このようなたくらみは、案外私たちの身にも日常身に降りかかってきているのではないか。それに気づかず、良いようにあしらわれているだけなのではないか、という気がしてくる。
 
運が悪かった。これは試練だ。いやいや、それは余りに能天気だ。自分が招いた事態かもしれない。自分に仕掛けられた罠があったのかもしれない。そんな背景も知らずに、喜んだり悲しんだりしていたとしても、それはそれで幸せなのかもしれない。そして神に向かって、あなたは正しい、神の言葉は真理です、あなたの道を教えてください、と祈る。
 
おや。どこかで聞いたことがあるような文句ではないですか。この回し者たちの言ったことと同じです。私たちの祈りは、回し者の言葉と殆ど変わりません。回し者たちはイエスに、皇帝に税を納めるという、ナーバスな話題をぶつけます。ユダヤのラビと言いながらローマに尻尾を振るのか、それともローマ法に逆らい捕まるか、どちらだ、と。
 
イエスは彼らに、銀貨を見せよという手に出ます。おまえの持っているものを示せ。そこにおまえの問いたいことの答えがあるのだから。イエスは私たちに、おまえたちは何を持っているのか、と迫ります。その表向きの祈りの背後に、何を隠し持っているのか。いえ、私たちはたくらんでなどおりません、そう弁明するつもりでしょうか。
 
人の心にはいつでも魔が差す可能性があります。裏切ったユダですら、自分で意図してあれだけのことをしたかどうか、分かりません。もはやこのペリコーペは、イエスの機転を称えている場合ではなくなりました。言葉尻を捉えられた奴らを見下して爽快になり、ほくそ笑みながら聖書を閉じてそれで終わりとするわけにはゆきません。
 
私はこの回し者のようになっていないだろうか、と問うべきなのです。イエスを称えているつもりで、神に不平や不満を問うことをしていませんでしたか。神はおかしい、と心に浮かんだことはありませんでしたか。知らず識らず悪巧みを懐いていませんでしたか。それならまだ、イエスの答えに驚いて黙っているくらいがましだったのです。


Takapan
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