ザカリヤの賛歌ないし預言

チア・シード

ルカ1:67-79   


イエスの誕生こそ、ルカ伝による物語のスタートとなるべきだった、と思うのでした。エルサレムを目指してそこで受難の上復活し、そこから福音が世界へ拡がるのが、ルカ伝の構図です。でもこれは「私たちの間で実現した事柄」(1:1)を「物語にまとめ」(1:1)たものです。洗礼者ヨハネの誕生は、決して意外な始まりだということはありません。
 
しかもその両親への神よりの告知から、イエスの母マリアへの知らせ云々と、巧みに福音の背景が説かれます。そのヨハネが生まれました。舌を封じられていたヨハネの父ザカリヤは、ヨハネの誕生と共に開かれた舌を、まず神への賛美に用いました。そして「聖霊に満たされ、こう預言した」のでした。すでにうたわれていたマリアの賛歌に続く賛歌です。
 
否、ここには「預言」とのみ書いてあります。預言を私たちは賛歌だと解釈しています。この後イエスの誕生のときのシメオンににしても、賛歌に等しい預言だと言えます。旧約の預言者たちの言葉に比すべきでしょう。このザカリヤも、旧約の伝統の中に置かれるべき役割を担っているのに違いありません。「僕ダビデの家に起こされた」救いの角です。
 
ザカリヤにはよく理解できませんが、だからこそ神からの言葉だと言えます。「敵の手」という想定は、ローマ帝国のことであるのかどうかは知りませんが、そこから救われ、「恐れなく主に仕える」ようになります。ヨハネに向けて「幼子よ」と呼びかけています。「道を備え」る役割を説きます。「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」のです。
 
悔い改めよと宣べ、水で洗うだけのヨハネには、罪を赦す権威はありません。しかし「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く」のは、イエスに任せればよいのです。それは「曙の光」です。人にはできないことが、神にはできるのです。私たちもまた、この救いを告げ知らせることだけは、させて戴きましょう。


Takapan
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