希望の言葉を放とう

チア・シード

ルカ1:67-79   


年寄り夫妻に子が授けられることを、主の天使に言われましたが、祭司ザカリアは信じませんでした。子が与えられるように、と祈っていたはずでした(1:13)。そのため、口が利けなくされていましたが、産まれる子をヨハネと名付けよと初めに言われた言葉を守ったことで、「舌がほどけ、ものが言えるようになっ」たのでした。
 
ザカリアは聖霊に満たされ、神を褒め称えました。これは時に「賛歌」と呼ばれますが、聖書協会共同訳は「預言」というタイトルを掲げました。現に本文にも「こう預言した」と訳してあります。預言とは、神の言葉を受けてそれを忠実に明らかにすることです。今、イスラエルの家に救いの角が起こされました。かつての預言者たちが告げていた通りです。
 
ザカリアが強調するのは、この神の業が、突如として起こされたことではない、ということです。かねてから言われていた預言者の言葉に従って、ひいてはかつて主が人間に告げていた約束の故に、これが起きたのです。主がイスラエルの祖先に対して示していた慈しみは、契約という形で、いまこの時にもたらされました。
 
遠くアブラハムと交わした契約が、いまに生きているのです。「こうして我らは/敵の手から救われ/恐れなく主に仕える」というのです。この後「幼子よ」て呼びかけて、洗礼者ヨハネとしての使命を、いわば神に代わってここに宣言することになります。「いと高き方の預言者と呼ばれる」のが、幼子の成長した姿へと映し出されてゆくのです。
 
神の光が、ヨハネを通して「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く」と閉じるまで、ザカリアは神を称え、イスラエルに希望を与える詩をうたいました。このような預言は、果たしてザカリアで終わってしまうのでしょうか。それとも、現代の私たちも、そのようなことを発することができるのでしょうか。
 
否、私たちも、うたわなければならないと思います。ザカリアが赦されて、神を称えるに至ったように、罪を赦された私たちキリスト者もまた、約束を覚え、希望の言葉を放ちたいものです。キリスト者も、一人ひとり神に出会い、神から言葉を預かったはずです。いま神へ心が向いていない人へ向けて、救いの神がここにいるのだ、と指し示すのです。


Takapan
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