バプテスマのヨハネとは誰か

チア・シード

ルカ1:67-80   


ザカリアは、口が再び開くようになってから、神に賛歌を贈ります。単に「預言」というタイトルではもったいないことです。ルカらしく、それは聖霊に満たされてのことであったとされていますが、この賛歌、実のところ余り注目されていないように思えます。イエスのことを称えたマリアの賛歌は非常に大きく取り上げられるのに。
 
こちらはバプテスマのヨハネを通じての賛歌。幼子よ、と呼びかけてもそれは神の子ではありません。一段と言わず無限の格下とされてしまっています。一体ヨハネとは何者だったのでしょうか。いまひとつ歯切れが悪いことは否めません。イエスの先駆者、それも本当でしょう。偉大な預言者、それも確かにそうです。
 
イエスを神の小羊と呼んだ、というのはルカの筆ではありませんが、ヨハネを理解するためにどう役立つのでしょう。ザカリアはこの預言の中で、ヨハネの位置を説いています。道を備えた。罪の赦しによる救いを知らせた。神の憐れみの心が私たちを平和の道へ導きます。かし注目しなければならないのは、その呼び名に「バプテスマ」が付いていることです。
 
洗礼者。そう、イエスに洗礼を授けるという、人間としてありえないようなことをした人なのです。さらに、そのこと一つのためにこう呼ばれるのではないとも考えられます。ヨハネのバプテスマは、これまでの洗礼とは大いに違っているところがありました。一回きりなのです。罪を犯す度にいちいち洗うのではなくて、一度きりの洗礼だったのです。
 
イスラエルの救いと平和の矛先を帝国の支配への抵抗やダビデ王朝の復興というところにのみ見出したのではなく、一人ひとりの神への悔い改めとして前面に出したことを、もっと重く受け止めたいものです。イエスがもたらした救いは、それの権威的な意味でのとどめにあたるものでもありました。
 
イエスが独りで土地を均して労苦したというわけではないのです。人々がイエスを受け容れることができるように、心の向きを換えるべく下ごしらえをしたのがヨハネでありました。一回きりの、罪からの救いという考えを心の中に刻みこみ、イエスがその生活の中に入り込んでくる時相応しい心を準備させたのでした。私たちにもできないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります