聖誕物語における祭司

チア・シード

ルカ1:5-17   


子どもが産まれない。旧約聖書に幾度となく現れる場面です。もちろん今でもそういう悩みはあります。問題にもなります。当人もずいぶん苦しんでいることでしょう。けれども、社会的に圧倒的な影響を及ぼす問題として赴任が考えられていたかの時代においては、今とは比較にならないほどの深刻さをもって、夫婦を打ちのめしていたものと思われます。
 
特に女の人は、生きている意味、存在価値のないものと見なされうるため、その深刻さは計り知れないものだったことでしょう。エリサベトは存在する意味がないと見なされるし、本人もその思いが離れなかったに違いありません。ザカリアはどうだったでしょうか。一夫一妻であったとすると、継子がないことになり、ザカリアにとってもよいことではありません。
 
もちろん他の女の腹を利用するという、かつての族長あたりに見られた手段も許されていたのかもしれませんが、ザカリアは祭司として、子のいないままに年を取っていたようですから、エリサベトと慎ましく生きてきたのではなかったでしょうか。それならそれでいいのだ、と。2人とも、神の前で正しい人であったなら、それでよかったのです。
 
落ち度なく掟を守っていたということをルカが強調しています。まるで律法を重んじるマタイのようです。異邦人といわれるルカですらそう言うのですから、よほど2人の誠実さが際立ちます私たちはどうしても、ザカリヤの不思議な体験とヨハネの誕生にまつわる経緯に気持ちが向かってしまいますが、今回はそれを避けましょう。
 
ここはむしろ、バプテスマのヨハネの紹介の場面であると見ましょう。ルカの中で、また教団の要請として、ヨハネの位置づけをはっきりさせておく意図があったものと理解しておきたいと思います。だから、たとえばこの天使の告知が、妻エリサベトにではなく、夫ザカリアにのみ与えられたのは何故か、注目してみましょう。
 
イエスの場合はマリアのみです。ザカリアは祭司だったから、としても、ここでザカリアは不信仰の罰を受けるかのような仕打ちに遭っています。ザカリアが沈黙しているうちに、マリアは冗舌に賛歌を捧げます。まるで、マリアが祭司の役割を果たしているかのようです。イエスの母は、沈黙せず、そして後にイエスの言葉を心に秘めるようになるのでした。


Takapan
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