ルターのマグニフィカート

チア・シード

ルカ1:46-55   


マリアの讃歌もまた古来多くの人の心を動かし、黙想を導いてきました。ルターは、このラテン語の冒頭の言葉「マグニフィカート」を以て、優れた本を呈しました。カトリック教会の脅威を前に、しかし主が共にいるという強い信仰を胸に、書き上げた本でした。結果的にルターの考えが、こうして500年にわたり受け継がれてきたことになります。
 
でも、確かにルターは、この讃歌を自らに重ねていると思います。自分を勇気づけるためにも、聖書を懸命に解釈したに違いありません。では、そもそものルカにしても、これをどういう思いで綴っていたのか、気になります。主は胎の子イエスにダビデの王座を与える、というメッセージを伝えましたが、こんなにも強い力ある詩となりました。
 
少女マリアの口からのものとは信じがたいような表現が見られます。力ある方の業、そこまでは個人的な信仰であり得るし、さほど違和感はないのですが、主の慈しみが御腕の力となって現れ、思い上がる者を追い散らす、などという辺りから、主への思いが暴れ始めます。エリサベトの温かな祝福を前にして、マリアが吠えているかのようです。
 
いったいなにをこれほどまでに、マリアは対抗するものとして置き、戦おうとするのでしょうか。人間社会の暴力に対してなのかもしれません。しかし人間たちは、同じ神の律法を以て、マリアを攻撃することになるのでしょう。律法がマリアを脅かすのであれば、マリアは誰と敵対していることになるのでしょうか。
 
ルターの目の前にいたのも、同じ神の名の下に、向かってくる勢力でした。アブラハムの子孫イスラエルの救いというからには、外国の力、ローマ帝国をルカが想定しているのかもしれません。権力の下で低くされた者を引き上げるという信仰は、すでに一少女マリアを超えています。エリサベトとの三カ月の間に、この詩は熟してゆくのでしょうか。


Takapan
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