エリサベトの祝福

チア・シード

ルカ1:39-45   


不妊ということだけで、全人格を退けられていたエリサベトが、子を授かりました。夫ザカリアは、一時的に口が利けなくなっていました。身振りで意思疎通を図るしかありません。エリサベトは、神に祝福を受けたと思ったことでしょう。そこへ訪れたマリアにより、エリサベトは霊の喜びを体験した、というのがこの場面です。
 
この情況のエリサベトが、マリアを、女の中で祝福された方であると称しています。ヨハネとなる胎児が躍ったという記事は、男は見過ごしてしまうかもしれませんが、かなりリアルで、大きく注目すべき点でありましょう。人は容易にこのように躍って喜びはしないものです。マリアの訪れが、人類全体の喜びのようなものだったのです。
 
このことは、エリサベトの口を通して、繰り返し明らかにされました。その後もそうだったことでしょう。マタイの福音書では、博士たちが、案内する星を見つけて喜び躍っています。言葉は異なりますが、喜びを大きく表す点では同じです。エリサベトはマリアの事情について、えらく達観したような対応をしています。異常な出来事ばかりです。
 
ルカは二人の会話を収録したというよりも、ここでヨハネとイエスとの関係をはっきりさせる見通しを描いていたはずです。表現の不自然さをあげつらう必要はありません。マリアは主の言葉を、必ず実現するものと信じたのだ、とエリサベトの口を通して示そうとしたようにも見えます。これをマリア自身ではなく、エリサベトに語らせたのです。
 
「お言葉どおり、この身になりますように」という、天使ガブリエルに対する返事があったことで、ザカリアとの差別化を図っているのかもしれません。そんなことがあるのか、と言った点ではどちらも同じなのですが、マリアの方だけは、すんなり受け容れられました。このマリアの信仰とは何なのか、と私たちは考える必要に迫られます。
 
マリアは、自らの内に神の子を宿した人です。男と違い、自分の体の中に神を孕みます。つまり、単に心理的というのでなく、現実に内的な経験をしたのです。信じるということが、「この身になりますように」という信仰は、まさにその「身」に起こる現実性を伴うものでした。いずれにしても、ひとの信仰を祝福するエリサベトを見習いたい気がします。


Takapan
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