エリサベト訪問を醒めた目で見る

チア・シード

ルカ1:39-56   


天使ガブリエルは、親類エリサベトという表現を使ってマリアに話していました。バプテスマのヨハネの母となる人のことです。こうしてルカによる福音書に於いて、イエスとヨハネは血筋のつながる者となりました。このエリサベトのところへマリアは行き、3カ月を共に暮らしたといいます。これは出産まで立ち会っていたと理解するのが自然です。
 
マリアはエリサベトの懐妊から6カ月目に告知を受けています。ルカは周到に、この辺りの動きがスムーズに流れるように数字を拝していますが、マリアが身重の体で、ユダの町へ急いだと言いますから、けっこう大変だったでしょう。ナザレからユダへ、これはイエスの出産の時にベツレヘムへ向かったことに匹敵しています。
 
マリアの挨拶に、胎の子が躍り、エリサベトは祝福の預言をします。主の言葉が必ず実現すると信じた方は幸いだ、とマリアの信仰を称えているのです。神にできないことは何ひとつない、とマリアは天使に応えていました。マリアは主への賛歌を歌い、体を大切にしなければならない時期に動いたのは、単独行動とは思えないのですが、どうでしょうか。
 
ところで有名なマリアの賛歌ですし、ルターの黙想による著書があったことでも有名ですが、貧しい一人の女への主の関わりが、非常な謙遜か始まっているところから味わい始めます。が、この中で、思い上がる権力者を非難しているところに注目しなければなりません。政治へのひとつきつい眼差しをはっきり伝えているのです。
 
ルカの著作は、テオフィロなる恐らくローマの高官へ献辞を記していました。その中でローマへの批判とも取れるこうした言明をわざわざ入れた真意は何でしょうか。ユダヤの支配を任されたヘロデにしても、ローマの手下のようなものです。あの献辞は事実と異なり、カムフラージュに過ぎないものだったのでしょうか。


Takapan
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