共有できる言葉と届かない体験

チア・シード

ルカ1:26-38   


結婚制度などの文化習慣が異なると、その世界に生活していないと、事の重大さやその意味を感じ取ることができないことがあります。少し寂しい気がしますが、クリスマスの物語もそうだ。下手をすると、そこから百年近く過ぎて編集したルカも、異文化出身であれば、その辺り実はよく分かっていなかったという可能性もあるのです。
 
祭司ザカリアの妻エリサベトは、不妊に悩んでいましたが、天使の言葉を受けて子を授かったことは、親類のマリアも知っていたでしょう。半年後、今度はそのマリアの許へも、天使が現れます。今度はわざわざガブリエルという天使の名が記されています。かの文化ではそれなりの意味や背景がある天使の名であると思われます。
 
ダビデ家のヨセフという存在についてもユダヤ文化についていろいろ言えるのでしょうが、いまはそこには深入りしないことにします。いいなずけという役割は、もう婚姻と同程度の関係だとも言われますが、全く同じでなかったからこそそういう呼び名があるはずであって、生活の中でどう感じるものかについては、やはり空気が分かりません。
 
すぐれた研究者の仕事で、いくらか私たちも知識をもつことができるようになりましたが、どうしても頭で理解するレベルを超えることができません。つまり、この出来事が私の物語となりにくいのです。けれども、このマリアに現れた主そのものは、私のところへ迫る主と違いはしないはずです。そこに目を注ぐことにしましょう。
 
主、これは共通です。天使の告げた事には、「主があなたと共におられる」というものでした。私にもそうです。「神にできないことは何一つない」というのも、私において同様です。同じ主だとしてつながる思いを素直に喜びたいと思います。制度や習慣の差異のすべてを捨象して、同じ主を仰いでいることが確信できます。
 
だとすれば、マリアの返答の中にも、私たちが共有できるものがあると思います。「お言葉どおり、この身になりますように」と受け容れるのはどうでしょう。そういえば、教会の説教や文書の解説でも、基本的なこれらの言葉が大きく取り上げられ、強調されるし、そうして会衆の心の中にこの言葉が格納されているはずです。
 
あと足りないのは、当時の制度や社会の中での、ダイナミックな信頼の生々しい感覚です。その戸惑いや不安、あるいはわくわく感などは、追体験が難しいかもしれません。このマリアの上に起きた、人生を突き崩す出来事に匹敵するものを、私たちはいま現に切実に受けているでしょうか。切迫した危機の中に捉えてこその福音ではないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります