戸惑うが落ち着いて受容するマリア

チア・シード

ルカ1:26-38   


エリサベトの出来事から半年、血筋のつながりのあるナザレの少女マリアの許に、突然天使ガブリエルが現れます。マリアは、ダビデ家のヨセフという男の許婚でした。つまり婚姻関係の内にすでに入っていたのでした。但し生活はまだ共にしておらず、子を宿す可能性はありませんでした。そこへ天使がいきなり、「おめでとう」とぶつけます。
 
マリアを「恵まれた方」と呼ぶガブリエル。しかしそのメッセージの内容は、とてもめでたいものではありませんでした。とても恵みだなどと言えるようなものではありませんでした。マリアにとっては迷惑千万です。はいそうですか、と軽々しく返答できるような性質のものでないことは明らかです。これはユダヤ社会では死罪に相当するのです。
 
ここで天使が、主が共にいる、と告げている点にはもっと注目すべきでしょう。マタイの主眼とも言えるメッセージです。福音書を閉じる時の言葉もこれですし、イエスについてはインマヌエルとの称号を与えます。それをルカが使っていることについては、偶々なのかもしれませんが、ルカだのマタイだのと区別しない福音が確かにあると言えるでしょう。
 
突然のお仕着せにに戸惑うしかなかったマリア。ひどく戸惑って、というところを私たちは見落としがちで、マリアは信仰深いなどと感心していることがあります。この時マリアはまだ、妊娠することについては知りません。それでもなお戸惑ったのです。天使に出会ったときに、死ぬと思ったのでしょうか。まずいことがあると予感したのでしょうか。
 
ショッキングな告知を聞いて戸惑ったのではなく、恵みだとか主が共におられるとか聞いただけで戸惑ったマリア。慌てふためいたマリアは、自分が歴史上の預言者のような役割を果たすことになるのか案じたのかもしれません。マリアは何に反応したのか私たちははっきりと知ることができないままに、次のマリアの落ち着いた反応を見ることになります。
 
神から恵みを受けていと高き方の子を産むのだ。天使からのこの驚くべき知らせにマリアは、どうしてそのようなことがありえるのか、と常識的な疑念を呈しました。ルカは、天使の言葉を疑ったザカリアを、しばし口が利けないほどの仕打ちに遭わせます。マリアも同様に、どうしてそんなことがあるのか、と言いました。でもマリアは罰されないのです。
 
落ち着いたマリアの「どうして」は、まさかと否定する響きではないようです。「どんなふうに」という訳が英語にあります。「ありえない」とぶつけたのではなくて、「どのようにしてそれが可能か」と問うたのです。マリアは、誰しもが泣き叫んで運命を呪うような告知に対して、鈍感なほどに落ち着いていました。この肝の据わった姿勢は学ぶものがあります。
 
私たちがこのマリアの真似を簡単にできるものではありません。しかし、神にできないことは何一つないのだというテーゼを、天使は今日私たちに、この私に突きつけています。マリアは自分の身に起こることを受け容れました。だからいま、私の身にも、神の業が起ころうとしています。神の言葉が真実になろうとしていることについて、さあどうしましょうか。


Takapan
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