神を賛美する人々が守る

チア・シード

ルカ19:37-48   


「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう」とのイエスの言葉が、風に乗って聞こえてきます。オリーブ山の坂で、弟子の群れの口からさかんに歌われる賛美の歌ヘ、ファリサイ派の内から文句が出たからです。でもそれは、非難ではありませんでした。「先生、お弟子たちを叱ってください」と言っただけです。神への賛美に抗ってはならないでしょう。
 
私たちの身の回りでも、凡そ神のしもべではありえないような者が、神を賛美していたとします。そこへ介入してゆくというのは、人と神とのつながりに異を唱えることとなります。私からは、その人と神との関係は、分からないものです。だから、裁いてはならないのです。私は神ではありませんから、そこに介入することはできないのです。
 
やがてオリーブ山を越え、エルサレムが見えてきました。聳える都は、天と重なって見えていたのかもしれません。イエスは知っています。これから何が起こるのか。自分の身の上のこともさることながら、エルサレムが粉塵と化すことが分かっています。イエスは、この都のために泣きました。泣きに泣きました。
 
イエスが同情して泣いた、ということは他にもありました。でも、エルサレムのためにイエスはここで、男泣きに泣いたのです。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし、それは今、お前の目には隠されている。」今がどういうときか、イエスには分かっています。平和への道は、エルサレムにはまだ見えていません。
 
私たちの時代にも、それは見えていないではありませんか。エルサレムの、どこに平和があるというのでしょう。神殿は破壊されます。「神の訪れの時を知らなかった」からです。ルカ伝が書かれたのは、神殿がすでに破壊されてからなのです。イエスは神殿に入り、「私の家は、祈りの家となる」べきことを告げます。
 
しかし商売人たちは、強盗の巣のようにしてしまいました。イエスが神殿で毎日教えを続けてゆく中で、当局の人々は「イエスを殺そうと謀った」と言いますが、「どうしてよいか分からなかった」のでした。民衆が「イエスの話に熱心に聞き入っていた」ことで、無闇に手出しをすることができなかったのです。その民衆も結局……。


Takapan
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