子ろばになって

チア・シード

ルカ19:28-38   


先立つイエスは、勇敢にエルサレムに向かいます。ルカの描くイエスは、ひたすらエルサレムを見つめて進みます。近づいたとき、二人の弟子を遣いに出します。人を乗せたことのない子ろばの絆しを解いて連れてくるように命じます。その際、もし誰かに尋ねられたら、との配慮がありました。弟子たちは、確かにその質問を受けました。
 
「なぜ、子ろばをほどくのか」と問うたのは、ろばの子の持ち主たちでした。一頭の子ろばの持ち主がどうして複数なのでしょうか。私はおかしいなと思いました。ともかく弟子たちは、イエスに言われたとおりに「主がお入り用なのです」と説明しました。すると、持ち主たちがどういう反応をしたのか、それをどうやら聖書は教えてくれません。
 
少なくとも、持ち主たちは手向かわなかったようです。詩編やゼカリヤの預言に、この場面とつながるものがあります。イエスの行動は、神とイスラエルの歴史に裏打ちされていることを告げたいのです。こうしてイエスは子ろばに乗ってエルサレムに向けて進みます。この子ろばは、読者が自分だと感じもするでしょうし、事実そう受け止められてきました。
 
私はこの子ろば。ならば、イエスにより召されるまでは、繋がれていたのです。複数の持ち主により支配されていたのです。この世の愉しみでしょうか。金そのものかもしれません。自分の中の欲望や、自己愛である可能性もあります。しかし、それがイエスと出会い、呼ばれたことで、解放されるのです。いえ、いまもう解放されているのです。
 
次に、主に遣わされた二人の弟子の立場に立ってみると、一人のひとを様々な制約から解き放ち、自由にする使命を帯びていたということになります。私は、子ろばの身になることもできますが、二人の弟子の身になって考えることもできるのです。子ろばを、イエスのところに引いてくる。上着を掛けて主をお乗せしよう。これらの主語は複数です。
 
主の言葉を受けて仕える者は、決して独りではありません。誰かと共にそれをします。そして、イエスが進む道に沿って歩きます。人々もまた、自分の上着を道に敷きます。皆がイエスを尊び、仕える態度を示します。その喜びが歌となり、道に響きます。神の賛美が高らかに響きますが、それはルカがイエスの誕生の時に天使に歌わせた歌の再現のようです。
 
イエスは子ろばの背に乗り、歓迎されます。子ろばは誇らしげにしていたでしょうか。それともイエスの重みに耐えているのが辛かったでしょうか。なにしろその方は、全人類の罪を負う救い主であったのです。そこまで考える必要はなかったかもしれませんが、せっかく子ろばの身になってこの場面に登場するなら、想像してみたいではありませんか。


Takapan
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