コロナ禍にして分かること

チア・シード

ルカ18:9-14   


有名な箇所で幾度か取り上げましたが、今回はこれまで気づかなかった違いを際立たせてみましょう。ファリサイ派の人は、立って祈っています。おそらく両手を挙げて天に顔を向けていると思われます。ユダヤの文化で祈るというのは、こうした姿勢であったそうですから。福岡の恋の浦の公園に昔、そうした彫刻がありました。
 
徴税人は、遠くに立っていたと書かれています。こちらは目を天に上げることはできないでいました。日本人はこちらの恰好の方が、いかにも祈りらしいと思えるでしょう。しかし徴税人はとにかく立っていました。そしてファリサイ派の人は「この徴税人のような者でないこと」を神に感謝しています。普通なら、このさもしい心が話のメインになります。
 
けれども、いま気づくのは、「この徴税人」が「遠くに立って」いたことです。聖所に入れなかったと考えることも可能ですが、確かに「この」と言っていますので近くのはずです。遠くにいるのなら、「あの徴税人」と言ったほうが、より自分とは違うのだという心理からしても適切であったのではないでしょうか。
 
この偉い人からすれば、ただの無関係なはずの徴税人です。罪人として軽蔑しており、汚れすら感じていたに違いない徴税人を、近い意識で「この」と呼んだことが気になります。これは、自分との違いをいっそう際立たせるための言い方ではないかと想像します。物理的に近づいてはいないのに、意識の中ではとても近く見えていたのだ、と。
 
コロナ禍の中で、私たちは事実の上でひとと距離を置かなければなりませんでした。遠く離れた位置に互いにいたことになります。他方、オンラインで他人の声が入ってきます。ひとはすぐ近くの画面の中にいます。あるいは、SNSの発言が、文字となって目の前に現れます。物理的には離れていても、他人の意見を「この」と呼んでいたのです。
 
そのとき私たちは、ファリサイ派の人と同じ体験をしていたのかもしれません。そして目の前にある他人の意見を「バカ」と心の中でなじったとき、呪わしいようにさえ見えるこのファリサイ派の人と、私たちは同じことをしているのではないでしょうか。ファリサイ派の人は、声に出さず心の中で、「この徴税人」と思っていたのです。
 
それに対して、徴税人の方は、胸を打ちながら、実際に声に出して言っているようです。祈っていたとは書かれていません。ファリサイ派は心の中で祈り、徴税人は祈りとも呼べぬ呻きがたまらず声となってこぼれていました。私たちは、いったいどちらなのでしょう。いや、まだこのことに気づいて、戻ることが、私たちにはできるのではないでしょうか。


Takapan
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