子どもと神の国について

チア・シード

ルカ18:15-1   


「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とのイエスの言葉は、大人である私には厳しいものに聞こえます。でも、子どもにとってはどうでしょうか。これを聞いて自慢げに思うでしょうか。子ども時分にこれを私が聞くことがなかったので、永遠に分からない謎であるかもしれません。
 
単なる想像ですが、子どもにとっても決してこれは居心地のよくない教えであるような気がします。それが、罪を知る、ということに関係するからです。イエスの対象は「乳飲み子」なのでした。否、乳飲み子も含まれていた、と言うべきでしょう。弟子たちがこれを叱ったのは、どういうシチュエーションなのか、いまひとつ思い描けません。
 
イエスに触れてもらおうと騒がしくやってきたのか、他に大人たちがいたのか、もうひとつピンとこないのです。それで確証はないのですが、イエスはむしろ、これを呼び寄せたと言いますから、おそらく親たちに抱えられたままであったと推測します。手を引いて歩いて来た子がいるかもしれません。とにかくイエスが呼んだのです。
 
それは、神の呼びかけということです。人にとり、それがどれほど大きなものであるか、旧約聖書を知る私たちは痛感することだろうと思います。召命とまでは言えないにしても、神の召しを受け、祝福されることをそれは意味しています。この呼びかけは、ヨハネの手紙が信徒へ「子どもたちよ」と呼びかけていたことを思い起こさせます。
 
だからこれは、私を呼んでいるのだ、とも言えます。「神の国は、このような者たちのものである」という言葉が、うれしい知らせに聞こえて仕方がありません。マタイと違ってルカは、「天」とは言い換えず、「神」の国だとはっきり言います。神の支配の内にあり、神と結びついた姿を意味します。神と共にあることをもそれは含んでいます。
 
神の愛に満ちている、そこまで思い描くのは、行き過ぎでしょうか。「子どものように神の国を受け入れる人」が、子どもであることを強調しているのか、神の国を受け入れる人であれ、と言っているのか、解釈は分かれるかもしれません。でも神との関係を、自分の弱さや無力感の内に実感できることは、必要であるのだと思います。


Takapan
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