神の国はいまここにある

チア・シード

ルカ17:20-21   


ルカ独自の記事です。この箇所のために、私たちは揺るがされます。神の審きの日を迎え新しい神の都が来るなり、神の国に入るなり想定していた私たちが、神の国は私たちのただ中にあると言われるのですから。しかも、見える形では来ないといいます。謎めいており、また人間の知恵では規定できない含みを有しているように感じます。
 
見えないということは、これに続く箇所でも強調されていて、そちらはマタイにも共通した部分の多い記述となっています。但し、マタイの話は弟子たちに、つまりプライベートに語られたということになっており、その点ルカもそうなのですが、この神の国の場所の説明に関しては、ファリサイ派の人々に向けてイエスが言ったとはっきり書かれている点に気をつけましょう。
 
突然ファリサイ派が登場します。ルカは意図的にこれをファリサイ派からの質問ということにしているのです。しかもその質問ときたら、場所ではなくて「いつ」と訊いているのです。ファリサイ派に「いつ」と訊かれたイエスが「どこ」を答えているというちぐはぐさ。そして「いつ」についてはその後に弟子たちに向けて、マタイにも共通するような内容で答えるという錯綜。その末、「はげたか」とあるのは、神の審きのようでもあり、ファリサイ派へのあてこすりのようでもあり、意味深長です。
 
ともかくイエスは、「神の国はあなたがたの間にある」と応えました。「見える形」というのは、何らかの観察により判定できるようなあり方ではない、ということなのでしょうが、それなのになお、あなたがたの間にあるというのです。ここは解釈が多様でしょう。また、信仰者が一人ひとり自分の問題として、その意味を考えていきたいものです。そのため、ひとつの規定した解答を求めるべきではないと考えます。観察で判定されないということをも踏まえながら。
 
この「あなたがた」とは誰でしょう。クリスチャンである私たちのことだ、とふだん何気なく読んでいませんか。しかしルカはこのことばを、イエスのファリサイ派へ向けてのことばの中に置いています。神の国はファリサイ派の中にある、と彼らは受け取るように聞こえています。弟子たちの間にもあるのかもしれませんが、さしあたり尋ねたファリサイ派にしてみれば、自分たちの間にあるのか、と思える回答なのです。
 
神の国とは、もちろん神の支配のことです。場所的な国ではない、という意味で、イエスが告げたのは分かりますが、ファリサイ派にしても「いつ」と訊いただけで、「どこ」と尋ねてわけではありませんでした。神の支配には、時に神の審きも含まれるでしょう。神の審きはいまここにすでにある。信じない者はさばかれている、とヨハネは言いましたが、審きには二つの概念があることも押さえておく必要があるでしょう。すでに、といまだ、と。
 
イエスはナザレで宣教を始めたとき、イザヤ書を開いて、福音を告げ知らせると宣言しました。ルカはそう描いています。異邦人であっても自らを罪人と知り、悔い改めて神を信じるならば救われるというわけです。審きの中に「すでに」は強調されていないと思われます。ですから、この神の支配とは、イエスがいまここにいること、目の前にいるではないか、という辺りから捉え直す必要があると思われます。
 
もちろん、イエスは目に見えたでしょう。しかし、イエスのメシア性が見えているわけではありません。救い主としてのイエスを体験しているわけではありません。ファリサイ派の中にも、いまここにイエスという救い主が来ているではないか、ともちかけている点は、どうしても理解しておかなければならないでしょう。それは私たちも同じです。神は遠いお方ではありません。すでにいまここに働いているお方です。人間の判断で決することを避けるべく、「見える」と言い張ることのないように、警告を与えていたと受け止めたいものです。


Takapan
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