その一匹に何故注目するのか

チア・シード

ルカ15:3-7   


罪人たちと一緒に食事をしている。そこからでした。罪人、なんと冷たい響きの言葉でしょう。ルカはよく使います。罪人であるからこそ救われるのだという構図は分かります。ただ、ルカ自身が本当に罪人ということについてどのように見ていたのかは分かりません。一種の差別意識を捨てきれなかったかもしれないのです。が、今はそれを問題としません。
 
イエスはここから、三つの類似の譬えを展開しました。それぞれ余りにも有名なのですが、趣は少しずつ異なります。今回は羊の話に注目します。百匹のうちの一匹を見失った所有者が、九十九匹を荒れ野に残してでも、その一匹を捜し歩くのです。捜し回らないだろうか、というのは、捜し回るのは当たり前ではないか、という意味に受け止められます。
 
本当に当たり前のことなのでしょうか。政治はこの99のほうを守るものであり、1は捨てていくもの。しかし芸術や文化、そして宗教は、その1に目を留めるものだ。このような捉え方があります。多数の賛意があれば権力が正当化されるという原理で動くのが政治。だとすれば一匹のために危険を冒し犠牲を払うようなことは愚かそのものに違いありません。
 
イエスの言葉を聞いていたのは、このときファリサイ派や律法学者の人々でした。政治的なのはサドカイ派や祭司長。政教分離のない当時ではそうです。政治に対立する宗教というあり方なのはファリサイ派や律法学者のほうでしょう。イエスはここへ向けて、一匹を捜し歩くのは当然ではないか、と持ちかけたのです。君たちは一匹に注目するはずだ、と。
 
行方不明の一匹を見出せるかどうか、それは一種の賭けとして、捜し歩くことになります。けれどもその過程はこの譬えでは吟味されません。さも当然のように捜しに言って、見つけ出してくるのです。イエスはその一匹の発見に苦労はしません。いとも簡単に見つけ出します。もう見つけています。神にとりあなた一人を見出すことは造作もないことなのです。
 
これを一緒に喜んでくれと周囲の人々を巻き込んでゆく、この羊の所有者。それを神だとするとこの譬えはおかしなことになりますが、天上での満場の喜びと解しては如何でしょう。それは私たち地上の弟子たちの共同体における共なる喜びとして受け止めたいものです。神に担がれた羊は、喜びの渦の中心にいて、安心を与えられるのです。
 
しかしルカは、最後に不思議なことを言います。この一匹は悔い改める罪人であるとするのです。へたをすると興ざめです。いなくなったというのは、罪人なのであり、悔い改めていたはずだというわけです。神に見つけ出され救われる要件として、この悔改めが必要なのです。ルカの福音書を読み取るときに、弁えておきたい背景であると言えるでしょう。


Takapan
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