罪人に照明が当たる

チア・シード

ルカ15:1-7   


イエスがたとえを語るときは、それを語り始める理由や背景が分かることがあります。ここでは、徴税人や罪人がイエスの近くに寄っていました。「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が言うには、イエスがこの罪人たちを受け容れているばかりでなく、「一緒に食事をしている」という点が、えらく強調されているように見えました。
 
共に食事をするのは、仲間であるという意識の上でのことです。例の学者たちは、そこで何をしていたのでしょう。同じ食事の席に居たとしたら、一緒に食べてなどいられません。さっさと退場したのではないでしょうか。14:25からすると、一旦招待の場からは外れていますが、14:1でイエスはファリサイ派の議員の家での食事に招かれていました。
 
教えやたとえがその後並べられているから、必ずしもそのシチュエーションに囚われる必要はないのですが、学者たちはイエスと罪人たちとから、少し距離を置いているようにも思われます。ルカはこのとき「文句を言った」と記しています。イエスだけを招いて少し話を聞こうとしたところ、罪人たちが一緒に加わってきたため非難したのでしょうか。
 
ここから、イエスの有名な三つのたとえが始まります。ルカが知る、同じテーマの三つのたとえを、体よくここに並べることができたわけです。こうして先ず、いなくなった一匹の羊を探すたとえ話が語られました。百匹の羊を飼う人は、羊の所有者ではあっても、羊飼いではない可能性もありそうですが、いまは羊飼いということにしておきます。
 
百匹全部のうちの一匹を見失ってしまいました。他の羊は放っておいてもよいから、いないと分かったその一匹を捜し歩くことになります。探す過程に問題はありませんが、見つかった後が重要です。担いで帰り、「友達や近所の人々を呼び集めて」祝宴まがいの喜びようです。罪人の悔い改めが、天上の喜びであると、ルカらしくまとめ上げています。


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