有名な譬えをいまどう読むか

チア・シード

ルカ15:11-32   


教会の伝道メッセージとして定番の、放蕩息子のたとえ。新しい訳では「いなくなった息子のたとえ」という題が付せられています。兄へ焦点を当てることもできるし、父にこそ注目すべきなのかもしれません。誰に感情移入するかも大切でしょうし、自分はこの物語のどこに位置するかを考えるのはクリスチャンとしての大前提だとも言えるでしょう。
 
しかしこのたとえを、よぉし、キリスト教を伝えるメッセージに利用しよう、と思った瞬間に、実は的を外しているのではないか。今回それをテーマに、このたとえを読み解いてみようかと思います。従って、このたとえでイエスが何を言いたかったのか、という解釈をここでやろうとするものではないことを予めお断りしておきます。
 
二人の息子が登場します。イエスは、父になれと言おうとしているようには考えにくいので、二人の息子のうちおまえはどちらであるのか、と問うています。イエスは前章から、そのように尋ねてきました。失われた羊や銀貨が見出されるエピソードに連なっているので一見同じ意味に取られてしまうでしょうが、この息子たちのたとえはそれに比して余りに複雑です。
 
深読みを望まないにしても、シンプルな描写だとはとても言えません。聞かされた私たちは不安に陥ります。多くの要素が盛り込まれると、解釈の取捨選択が理解を大きく変えてしまう難点があります。私たちは自分にとり説明しやすい情報ばかりを取り上げて、説明しづらい自称は無視してしまうものです。関心のない店舗の存在が記憶に残らないのと同様に。
 
この物語を、何かの説明に利用しようと意図した瞬間、私たちは自分を本位にして、神の示す情景を塗り替えてしまうことになります。たとえば「ところで」以下を殆ど無視することで伝道メッセージを完成することもできるし、「ところで」以下を重視したとしても、兄を批判する筋道と、このような兄を導く筋道とが区別されうるわけです。
 
さらにこの父をけしからんと非難することすら私たちにはできるのです。しかし、私はどこにいるのかを問われました。私たちは、叱責されつつ、あるいは古傷に痛みを覚えつつ、このたとえの場に置かれます。すると結局父の言葉を聞くということの中にしか、事態の解決は図れないようになっているように思われます。
 
弟は惨めな立場に陥ってから、猛烈に後悔します。なんとか父のところに戻ろうとして、謝罪のリハーサルまでします。兄は黙々と従っているようで、一旦蓋を開ければ、実は自己顕示が激しく、自己義認を主張してまくし立てます。しかし、それらはいずれも宙に浮いたままでしかなく、父の受容する姿勢と言葉によって初めて、このたとえは閉じられるのです。


Takapan
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