九十九匹の羊

チア・シード

ルカ15:1-7   


罪人たちを迎えている。受け容れている。この一言が発端でした。ファリサイ派や律法学者たちが口々に不平を言ったそうです。イエスに近寄ってきていたのは、徴税人や罪人。冷たく突き放したこの表現は、ルカの思いというよりも、エリートたちの目に映るままでしょう。ただ、ルカは罪人たちに悔改めを要求します。そうすれば救われる、と。しかし今回、このエリートたちもこの場にいる点に、より注目して読んでみましょう。
 
徴税人や罪人とは、律法を守っていない人々のことであり、神の祝福から漏れた者たちだという宗教理解がありました。それを、ユダヤの教師として不思議な業とともに突如現れた預言者イエスが、近寄ることを認めているばかりか、食事を共にしているというのを見たもので、全うな宗教者から見れば、奇異にしか見えませんでした。
 
私たちは、それほど異様なことだとは見ていないように思います。「食事まで一緒にしている」という新共同訳の「まで」は原文には見当たりません。脚色が強すぎますが、当時食事を共にするということは、仲間であることを意味しましたから、罪人と蔑まれる人々と共に食事をするということは、ありえないことと見られたことは確かです。ユダヤ教の教師がそうしているのは、衝撃的なものだったはずです。
 
神の国は、しばしば宴会に喩えられます。新約聖書のあらゆる側面から見て、神の支配する国においては、賑やかな宴会が催されているものと思われます。ならば、罪人との食事の場は、まさに神の国の姿でありました。神の国が実現していたのです。多くの人が招かれていましたが、人の世から排除されていた者たちをイエスは呼び集めたことになります。
 
百匹のうちの一匹が迷い出ました。イエスは、ファリサイ派や律法学者に向けて語り始めます。神はその一匹を探して見つけてくださる、それは残りの九十九匹を野に残してでもそうするのだ、と説明しました。そして見つけたら、近所の人々を呼び集めて喜び合うというのです。ルカらしく、罪人こそ救われるという構図がそこにあります。クリスチャンは、自らを罪人と自覚した者でないはずがありません。私たちは、この一匹こそ自分なのだ、と口を揃えて告白します。
 
しかし、この構図の中で、九十九匹の羊というのは、何なのでしょう。共に祝う近所の人が、クリスチャン仲間である可能性はありますが、悔い改める必要のない九十九匹の羊は、誰かを表してはいないのでしょうか。そして彼らのほうが、断然多いのです。かのエリートたちこそ、悔い改める必要のない、ということはもう救われていて立派な面々だというのでしょうか。それにしては、多すぎます。社会が、99%のエリートと、1%の外れ者からできているとは思えません。
 
イエスの構図からすれば、このエリートたちもまた、罪人のうちに数えられていることになるはずです。罪を犯さない人間はいないのですから。羊飼いはこの九十九匹は救う必要がないとしているのでしょうか。本当に私たちは、ルカがスポットライトを当てたこの一匹の羊なのでしょうか。日本のクリスチャン人口は1%未満です。ちょうどこの比率に合致しますが、だからクリスチャンたちは皆この選ばれた一匹の羊だと言えるのでしょうか。
 
良き羊飼いイエスに見出された、特別な一匹。私は主の肩に担がれて救い出された。皆にその救いを祝って戴いた。ああいい気持ちだ。ほんとうに、そうなのでしょうか。「悔い改める必要のない」というのは、私には、強烈な皮肉のように聞こえます。クリスチャンだと自称していても、実はこの九十九匹の中にいるかもしれない、それが私たちです。罪人であることに徹していなければ、誰もいつでも九十九匹に紛れ込んでしまいます。私たちは、イエスに、話を聞こうとしてイエスに近寄っているでしょうか。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります