イエスはどこにいるのか

チア・シード

ルカ14:7-11   


イエスは食事、あるいははっきり言うとえんかいの席に、招待を受けました。招待されることがあった点に気を留めましょう。ファリサイ派がすべて敵だったのではなく、親しく交わっていた人々もいたはずなのです。上席と末席の区別もあったわけですから、規模までは明確ではないにせよ、ひとかどの宴会であったことでしょう。
 
客が集まります。自ら上席へと足を進める客たちは、ふだんからそういうルールであったのかもしれません。しかしそれを見たイエスが、言葉を発して――といくまえに、私は考えてしまいます。イエスはこのときどこにいたのでしょう。どこに立って、あるいは座って、この様子を見ていたのでしょう。私にはさっぱり分からないのです。
 
考えたこと、ありますか。私が問うと、こうではないか、などと推測を聞かせてくれる人もいます。でも推測ではなく、明確にその場面を思い描きたいのです。招待されたら、上席ではなく自分では末席に行って座れとイエスは告げます。招待者は、どうぞ上席へ、と促すので面目を施すことになるのだ、というのです。面目なんですね。
 
そしてイエスのポリシーを語ります。高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる、というテーゼによって、この場面がひとつ落ち着きます。この言葉には、読む者誰もが注目します。もちろん、それでよいのです。自らを誇ることなく神により立てられることの方を良しとすることが言われているし、そう受け止めて然るべきだと思います。
 
招いた人は、神を表しているのでしょうか。それもよいでしょう。ただ、イエスがこの情景をどこで見ているのか、それを私は問うのです。確かに、招かれていたのであり、目撃したのです。入口でしょうか。会場が見渡せる以上、宴席を見ているのは事実です。譬えの内容と重ね合わせるならば、この宴会は神の国を象徴していたに違いありません。
 
イエスは神の国を重ねて見ていたのです。教会は、神の国のモデルであると考えられています。そこへ招かれる人が集まります。イエスはこれを確かに見つめています。私たちの出るも入るも見ている神ですが、教会での姿が見られていることになります。上席へ自分の価値観や判断により自ら誇り高ぶるような者を、恥ずかしくさせようとしています。


Takapan
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