イエスに従うために捨てるもの

チア・シード

ルカ14:25-33   


大勢の群衆がぞろぞろとついてきました。ルカは群衆という言葉で指す対象を、快く思っていません。イエスにとりこれは良いことではないのです。そこへイエスが釘を刺します。弟子となるには、身内も自分の命も憎め。自分の十字架を負って従え。これだけを聞くと、恐ろしさに襲われます。ただルカは、これを理解させる説明を加えていると思います。
 
建築の前に費用が足りるかどうか、戦いの前に兵力が十分かどうか、「まず腰をすえて」算段するはずだ、とルカのイエスは語ります。そして、それと「同じように」、自分の持ち物をすべて捨てよ、と迫るのです。そうしないと、イエスの弟子にはなれない、と。身内の人々もこの「持ち物」と見なすのは、一家の長たる男の視線であるようにも思えます。
 
「自分の持ち物を一切捨てないならば」と最後に言っていますが、ここは、「その人自ら所有しているところの全てのものを手放さないならば」ようなニュアンスであろうかと思います。持ち物という名詞であるというよりも、動詞的なのです。しかも、この「所有している」の語は、「先ず第一に存在しているもの」のようなつくりだとも受け取れます。
 
自分にとって、初期設定されているものを指すような感覚があると私は思いました。持ち物、あるいは新しい訳では「財産」としていますが、この日本語のもつイメージとは、だいぶ違うようにも感じられます。決して、金品や生活財産を指しているのではないのです。そうするとこれは、信仰について極めて当たり前のことを言っているように考えられます。
 
私は、自分で最初から有していたものを諦めなければなりません。私は何を初期設定で有していましたか。一言でいうと、罪でした。神に逆らい、神を従える勢いで自ら神のように君臨し、他人を裁き、あまつさえ神をも裁く、傲慢で尊大な精神の持ち主でした。自己中心で、他人の感情を顧みない暴君でした。これを諦めないと信仰にならないには当然です。
 
イエスに従うために、これらは邪魔です。いえ、これらがあってはイエスの弟子ですなどと大きな顔をして言えるはずがありません。尤も、これらがあるからこそ、厚かましくも自分はクリスチャンです、と言い切っているような者が、世の中にはゴマンといるようにも思います。もちろん私自身そうなりたくはない、とは思っているのですが。
 
人間として元々有っていたものを後生大事に抱えながら、それに頼りきっていながら、どうしてイエスに従うことができるでしょう。ところがえてして、自分の内にの財でもある自分の得を目指して、イエスを利用しようとするような輩が世にはたくさんいます。神を従えて自分の召し使いとして仕えさせるのです。信じられないですか?
 
しかもそんなふうでありながら、教会に普通に通っているということも可能です。一見、良い信徒のように振る舞うこともできます。しかしまるで方向性の違うこのあり方は、信仰とは真逆の営みです。それが他の羊たちを惑わし、実に害悪な言葉や考えをばらまいているのが、この情報化社会の中での気軽な発信となっていることを憂えます。


Takapan
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