不幸な事故と罪

チア・シード

ルカ13:1-5   


悔改めとくればルカによる福音書。美しい物語も多々ありますが、その一方で、この場面はシビアです。残酷である上に、これは譬え話ではなく、事実として語られています。あの放蕩息子の惨めさも、話はフィクションだという前提があるから、比較的落ち着いて聞いていられたのです。今回の歴史は、歴史的な裏付けがなくとも、史実として描かれているのです。
 
明らかな嘘であれば、それと知られてしまうでしょう。何かあったに違いありません。ピラトに対してガラリヤ人たちが、恐らく政治的反抗を示したことで神殿かどこかで処刑したというのがまず一つめの事件です。イエスに対してピラトが行ったことは福音書それぞれでほぼ評価されますが、その他に挙げられることはここしかありません。
 
ローマ支配の暴虐さが伝わってきます。ただ、ローマの支配方法は、反逆を除けば、比較的穏やかなはずでした。宗教も自治も、それなりに認めていたと思われます。現地を任されたピラトが、自分の保身か名誉のために、時に思い切った手法をとった可能性はあるかもしれません。田舎のガリラヤの小さな事件がそうそう歴史に刻まれることもなかったでしょう。
 
刑罰を受ける者は罪人であったからだ、と誰もが考えますが、その考え方は適切であるのかどうか、イエスは問うているように見受けられます。シロアムの塔の事故が二つめの事件ですが、これも同様に、罪人だから不幸に目に遭うという常識に挑んで問いかけたのだのではないでしょうか。
 
これら政治的あるいは事故による不幸を、罪によるもの、滅びたのか、といった世間の常識的な見方による言葉を用いながら説明するイエスは、そうではない、と言いたかったに違いありません。誤解を招きやすいとはいえ、滅びるという語は犠牲者たちの死とは関係がないと思うのです。人の滅びは、もっと宗教的な死のことを指すべきものとしているのでは。
 
この人たちは不幸な死を迎えてしまいました。しかし、悔改めのない者は、神の裁きの壇上で、義とされ命を受けることがなく、もっと不幸な滅びという死に向かっているのです。不幸な目に遭った人々を罪の故だと評する冷たい眼差しを諫めようとしている。時を見守り、和解を求め、自分が変わることこそ、イエスが求めていることではないでしょうか。


Takapan
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