目を覚ましているのを見られる

チア・シード

ルカ12:35-40   


「神の国を求めなさい」(12:31)との教えに続いて、目を覚ましていることの報いを語ります。目を覚ましていなさい、という命令の形でイエスは語っているわけではありません。婚礼から帰ってくる主人を、戸口ですぐに開けようと待っている僕であれ、というめいじかたをするものの、控えめな言い方で「目を覚ましているのを見られる」と繰り返します。
 
その「僕は幸いだ」とするのです。この二つの表現が耳に残った弟子たちだったことでしょう。主人を迎えることが、そのなすべきことではありましたが、冒頭で「腰に帯を締め、灯をともしていなさい」というところから始まっていることに注目したいと思います。これが、主人を待っている、ということの意味にほかならないのは確かです。
 
しかし、待機する姿勢をしかと弁え実践することが、ここに突きつけられていると感じるべきです。「戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人」であれ、と加えられ、本題に入ることになります。これが「目を覚ましている」ことへとつながるのです。なぜ「幸い」なのか。ここで「アーメン」の言葉をひとつ挟んで、イエスは続けます。
 
「主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる」というのは、ショッキングな報いです。食事の席で給仕を主人からしてもらう僕だなんて、想像しづらいではありませんか。ありえない構図です。なすべきことをしたにすぎない、と僕は言うべきだ、なら理解できるのですが、これではまるで洗足の場面です。
 
しかも、イエスに従う僕となった者が神の国の宴でのことで、とんでもない待遇を受けていることになります。逆に、盗人に対しても待機しているならば、みすみす盗ませるようなことはあるまい、とも説き、人の子たる主人が「思いがけない時に来る」ことを告げます。この僕のたとえは、もう少し続くのですが、いまはここまでにしておきます。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります