目を覚ましていればよいのか

チア・シード

ルカ12:35-40   


ルカはマタイと共通な資料をも用いたと言われています。この12章あたりを見ると、マルコにはないがマタイと共通した題材がいくつも見えます。但し、マタイとは福音書の中で並べられている位置がずいぶんと違います。つまりルカは、ルカなりの編集で、自分の関心や方針に従ってその資料を並べ置いているらしいことが窺えます。
 
イエスの語録のようなものです。ルカはこれらは、まず群衆に対する言葉として設定しました。ルカは「群衆」という言葉を良い意味には用いていません。福音を解することのできぬ烏合の衆のように扱う傾向があります。他人事のようにそれを見ている場合ではないのですが、ともかくここではイエスに従う人々に説いているという雰囲気ではありません。
 
しかし突如、弟子たちに向けて語ります。思い悩むな、と。そしてこの個所へとつながるのです。これを話すと、すぐさまペトロがイエスに訪ねます。これは弟子たちのための教えなのか、それとも群衆のための教えでもあるのか、と。それが分かりにくかったということですし、ルカはそのどちらであるかをはっきりさせる必要があったわけです。イエスは、管理人の立場のための話であることを示します。つまり、弟子たちに向けての話だったのです。
 
腰に帯を締めるのは、たとえば出エジプトの時に神が心してかかれという時以来のイスラエルの伝統です。日本の男なら、褌を締め直すというところでしょうか。さあ、と奮い立つのです。また、ともし火をともすのは、幕屋の規定にありました。目を覚ましていよとの命令と重なります。そして、常に緊張して待っておれというのは、他の喩えにも見られました。
 
しかし、主人が婚宴から帰って来て戸を叩くというのがいきなり説明されます。これはなんとも不自然な設定です。なくもがなの説明ではないでしょうか。婚宴というからには、何かしら終末の出来事であることは窺えますが、あまりにも突然のことですし、その後の譬えの進展からしても、特に意味をもつもののようには見えません。やはり不自然です。
 
不適切な管理人の姿に厳しい裁きが下されるのは、マタイ24章なら分かります。偽物を蹴散らすのです。しかしルカは違います。この幸いな僕は直後に忠実で賢い管理人であるとし、弟子たちに神は期待しているぞと励ましている程度のように見えます。ただ目を覚ましていよということを言いたいシチュエーションであるようには考えられないのです。
 
このパラグラフの中央に、もう一つ不思議な、しかしともすれば読み過ごしてしまいがちな文がありました。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という文です。この初めは、「アーメン、あなたがたに言う」と書かれてあります。ヨハネのように「アーメン」が二度繰り返されているわけではありませんが、これは相当に強調する前置きです。いいか、よく聞けよ、ここが要だ、という具合です。
 
なんと、主人自らが腰に帯を締め、僕たち、弟子たちに仕える」と言っているではありませんか。挟み込みからしても、この「アーメン」からしても、この個所でも最重要部分であることは間違いありません。私たちは、目を覚ましていよ、というところにいつの間にか目が集まりそれしか頭に残りませんが(そして実際目を覚ましていることは最高に難しいことなのですが)、ルカのイエスは、この中央のところを心して聞けと言っていたのです。
 
イエスが私たちに仕えていたではありませんか。この後十字架で私たちへの愛を全うしたイエスが、来るべき将来において私たちをもてなすのですと。食事の席は神の国での交わりを表しています。神の仲間として祝福を受けるということです。わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し仕えよ、問題はそこではなかったのでしょうか。


Takapan
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