イエスへの問いに潜むもの

チア・シード

ルカ10:25-28   


有名な、善いサマリア人のたとえ。傷ついた旅人を、立派な宗教家は無視して通りすぎたが、敵対していたサマリアの人が助けたという話。いかにも美しい話であり、教会学校で子どもたちにも安心して話せる内容です。あるいは、サマリア人こそ傷ついた人を助けるイエスであり、瀕死の者こそ自分なのだと気づかせるメッセージもあるでしょう。
 
けれども今日のペリコーペは、その喩えの直前で切られました。喩えなしに喩えを語れというのでしょうか。ここから何を伝えることができるでしょうか。直前でイエスは、知恵が現されたと聖霊に喜び溢れていました。これを見た律法学者が立ち上がったのでした。これはイエスを試そうとしたのである、とルカは書き留めています。
 
永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいでしょうか。ルカはこの質問そのものを否みません。この問いはどこから来たのでしょうか。ふだんからの根本問題だったのでしょうか。ファリサイ派とサドカイ派とでは、これについての問題意識がだいぶ異なります。試すからには準備をしてきたはずですから、思いつきのようには考えにくいものです。
 
ならば、イエスに真底この問題を考えてもらい、ずっと自分が疑問に思っていたことを解決してもらおうとして、尋ねたというのではなさそうです。今その答えが知りたい、と立ち上がったのではなくて、試そうとしたのです。イエスは、このような罠の仕掛けられた質問に対しては寝に質問をします。それはユダヤ式問答の定型だったとも言われます。
 
では、律法はどう答えているか。そして、君自身はどう思うだろうか。こうした自覚を促す質問は、教育的でもあり、妥当な疑問だと言えます。律法学者のほうも、律法に基づいた基準の考え方を返します。聖書の根本命題を即答するのです。イエスは、それでよいと合格のサインを送りました。ところがここで、律法の専門家は蛇足を見せてしまいます。
 
ルカはこの様子を、「自分を正当化しようとして」と説明しています。その目的で律法学者はイエスに尋ねるのです。「わたしの隣人とは誰か」と。試そうとした側からすれば、イエスの逆質問は予想の範囲なのかもしれません。この展開も想定していた流れであったとしたら、どうなるでしょうか。イエスにとり隣人とは何か、すかさずイエスに尋ねたのです。
 
イエスがこの律法学者に、隣人とはイスラエルの同胞のことだよ、とユダヤ教の一般的な理解を返したら、どうなるでしょう。律法を守れないおちこぼれの民衆を癒し、救いの言葉を語って評判をとっているイエスが、そんな答えをもしもしたら、イエスは普段の宗教活動を自ら否定することになってしまわないでしょうか。
 
かといって、隣人というのは敵対している民族を含むし、律法のおちこぼれ、罪人と称されて仕方がない人々が隣人だとイエスが答えたとしたら、どうなるでしょう。伝統的な律法を破壊するような宗教活動の正当化をするのは、当局への明らかな反抗となります。汚れた律法違反の者を愛するなどというのは律法をやはり破壊することになります。
 
イエスはどちらを答えても、ケチをつけられるところに追い込まれていました。律法学者が自分を正当化するというのは、イエスのスキャンダルでもあったとまで見るのは、的外れでしょうか。イエスに祈りで何を問うてもよいし、神に何を叫んでもよいとしても、悪意から自分をこそ神より上に置くような悪意の誕生を、ルカは見逃しませんでした。


Takapan
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