見聞きした私たちからサタンが落ちた

チア・シード

ルカ10:21-24   


72人の弟子たちが派遣から戻ります。イエスの名で悪霊たちも服従するという報告に、イエスは、サタンが落ちるのを見ていたと言い、弟子たちに害は及ばないと安心させます。但し、喜ぶべきことはそのことではありません。弟子たちの名が天に記されていることを喜ぶべきだというのです。神の許にその名があるというのは救われることそのものです。
 
幼子たちにこそ、こうしたことが示されたのだというイエスの感動は、ではその幼子とは誰なのかという問いに私たちを導きます。無邪気な弟子たちのことでしょうか。あるいは、その弟子たちの伝える福音を耳にして、信じる方へ動いた人々がいた、その事情を指しているのでしょうか。自分の身を誇ることのない、まっすぐな心をもつ人のことでしょうか。
 
本来、父と子イエスとの関係など、世の人が分かるはずがありません。ですからここには、ある種の隠された福音というものがあると考えられます。但し、イエスがそのことを示そうとする相手たる者はまた別です。ここは弟子たちへ向けて言っているというのでなく、父なる神への祈りであり、父との交わりの中で発された言葉です。
 
それからイエスは弟子たちの方を振り向いて言います。弟子たちへ向けて弟子たちにだけ言っています。弟子たちの見ているものを見、聞いているものを聞く者は幸いだ、と。弟子たちはもうすでにその幸いの中にいます。これははっきりしていますが、それを、伝えられた人々も見て聞いたというのですから、福音に触れた人のことを指しています。
 
そこでサタンは落ちたのです。天から落ちたのですが、見聞きしていた私たちからも、サタンは同時に落ちたのです。私たちの中に神の国があるのだと理解するルカからすれば、心の中に神が訪れたとき、そこからもサタンは落ちたのです。自らの罪を認め、神の赦しをキリストの十字架を通して与えられたことの分かった人から、サタンは落ちたのです。
 
これまでのイスラエルの歴史の中で、どんな預言者でも王でも、これほどの恵みを知った者はいませんでした。イエスがそう言ったのです。イエスの現れというものは、それほどに画期的なことだったのです。そしてこの福音書に出会った人もまた、この私ですら、この恵みを受けたことを、躍り上がるほど喜ぶべきです。


Takapan
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