石の証人

チア・シード

ヨシュア24:16-28   


この直前の、「わたしとわたしの家は主に仕えます」がよく取り上げられます。それはそれでよいのですが、今回はその続きです。シェケムで契約を結んだというストーリーですが、ヨシュアは、大きな石を木の下に立てて、これを証人あるいは証拠とした、というところに注目します。証人という語は聖書協会共同訳ですが、後に殉教者の意味がこめられました。
 
証人は命を懸けて証言します。石にそのような命がある訳ではなく、その存在が永続的に証しをすることになります。私たちが過去を振り返れば、無数の証人が並んでいると言えるでしょう。ヘブライ書にある信仰者の列伝もまた、こうした証人のパレードです。神を欺くことがないように、証人となっているというのなら、私たちは見張られています。
 
神の視線を感じているでしょうか。見張られている実感があるでしょうか。最初はありませんでしたか。信仰生活に慣れてくるとそれに鈍感になっていませんでしたか。それを問うたら、次は私たちが石となりましょう。石は主の言葉をすべて聞いていましたが、私たちも聞きました。これから先、この石のように聞いたんだぞという証人となりましょう。
 
何を聞いたのでしょう。ヨシュアにおける契約の現場では、ヨシュアが主に仕えると宣言したのに併せて、民もこの主にこそ仕えるのだと宣言しました。カナンの地は神の約束の地でありましたが、そこには危険な獣と、偶像の文化基盤がありました。約束の地では平穏で安らかな暮らしが保証されていた、というのではなかったのです。
 
敢えて神がそういう場へ放り込んだかのように、私たちは試練の中に入れられます。誘惑の絶えない環境で、民は口を揃えて主に仕えると繰り返しました。この方こそ神です、と。ヨシュアはそれを鵜呑みにしません。厳しい予告をします。無理だ、と。民はそれでもなお、主に仕えると抵抗します。
 
相手の申し出を否定することを幾度か行った後、より強い相手の肯定を導出するという応答は、聖書に時折見られます。アブラハムがサラの埋葬の地を得るところからは、商慣習にもあったことが推測されます。ヨシュアは一旦、あなたがた自身が証人であると告げますが、人間にできる精一杯の誓いが、このようなものだったと理解できます。
 
だから人間以外のものとして、石が置かれました。このとき「ヨシュアは、これらの言葉を神の教えの書に記し、次いで、大きな石を取り」とありました。ヨシュアは律法の書を記しているではありませんか。そして直後にヨシュアは死にます。律法の担い手はモーセだけではありませんでした。ヨシュアの律法、これは小さくない着眼点となり得ましょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります