否定しきれない警告

チア・シード

ヨシュア24:14-23   


律法の書は、モーセの契約ですべて事足れりとはなりませんでした。ヨシュアによるシェケムの契約を経て、定住したイスラエルの民のための指針が与えられる必要がありました。でも、せっかく主に仕えよと告げ、民も主に仕えますとレスポンスしたのに、ヨシュアはそれを認めません。主に仕えることはできない、と。
 
主は背きを赦さない。異国の神々に心を奪われる民だから、災いを下されるようになってしまうとするのです。歴史を先取りした予告にもなっていますが、ここには文化的背景もあるかと思います。一旦否定される、つまりアンチテーゼが出されるのです。サラの埋葬のため、アブラハムが土地を購入しようとしてヘテ人と交渉する場面を思い出しましょう。
 
どうぞ無料で土地を、とヘテ人は言いますが、真に受けてはいけません。アブラハムは丁寧に支払う契約を持ちかけ、売買が成立します。表向きの会話が内心と異なるのが当然だったのです。日本人なら分かるでしょう。つまらないものだと言って贈り物を渡し、うちは全然だめですのよ、と身内を低く言う。つまり嘘から入りそれを否定させる会話が日常的なので。
 
ヨシュアは、他の神に仕えてもよいと突き放すのですが、民はそんなことはするものかと返します。主は自分たちをエジプトから連れ出したではないか、異教の神々を追い出したではないか、この方こそ神であり、他にはない、と断言するのです。民の信仰告白の姿であったのですが、ヨシュアはこれを否定してしまいます。主に仕えることはできない、と。
 
そんなことできるはずがない、とヨシュアは釘を刺す。だから主を捨ててしまい、祝福どころか、呪いを受けることになる、と否みます。それを経て、もう一度神につくと民は返すという構造になっています。後のイスラエル王国の歴史を踏まえて描いているのは確かでしょう。改めて主なる神に従うことを誓わせるよう、念を押しているものと思われます。
 
結果、捕囚から帰還したユダヤ人の心にもこれは響くこととなります。ここには、ヨシュア個人の宣言「しかし、私と私の家は主に仕える」で有名です。ひとは偶像の神でも何でも拝めばよい。自分に都合のよい神を選べばよい。「しかし」と続くのです。これは同胞に告げています。今でいうなら、クリスチャン仲間、教会の中で告げているようなものです。
 
まさか、教会に来ている人々に向けて、あなたは違う神に行け、などと言うはずがない、とお思いでしょうか。けれども、すり替えの危険はどこにでもあります。仏像は拝まないかもしれませんが、金や権威、人間ですら、第一にする誘惑に晒されています。ヨシュアの最後の命令は、いまも私たちに向けて語られているに違いありません。


Takapan
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