いまここでの契約

チア・シード

ヨシュア24:14-18   


振り返ってみよ。危険から守られ、多大な土地や作物を与えられてきたではないか。誰がこうまで守ったのか。与えたのか。イスラエルの神、主ではないか。ヨシュアはシケムに民を集め、人生の最後に遺しておくべき言葉を告げます。主に仕えよ。これに尽きます。後の時代の状況をも踏まえた表現になっていますが、主眼は、異教の神々を駆逐することでした。
 
ヨシュアの言い方には、いくらか皮肉がこめられているようにも見えます。もしエジプトやカナンの土着の神々に仕えたいのならばどうぞそちらへ行きなさい、突き放します。「自分で選びなさい」という呼びかけは、聖書の中でも珍しいように見受けられます。選択の自由が与えられ、人々は自己責任で事に当たらなければならなくなります。
 
古代や中世の社会であったように、親方の言いなりに信仰をもったことになっただけだ、などという言い逃れはこれでできなくなります。間違いなく自分で選んだのですから。とはいえ、誘導的な部分も見られない訳ではありません。反語のように、迂闊に否定することのできない状況に追い込まれている、とも言えます。それでもいわば神の前にひとり立って、私たちは神に問われる身であることは代わりはありません。
 
しかも「今日」という迫りがここにあります。いつかそのうちに、とお茶を濁すことはできません。今日頑なになってはならないことをヘブライ書は重ねてきますが、いまここで問われているということを忘れてはならないし、そこから逃げてはなりません。
 
これに対してイスラエルの民は、模範的な回答を示します。主に仕える、この主こそ私たちの神である、と告白するのです。この応答は、一つの信仰告白としてイスラエルで用いられ続けることになったことでしょう。幾千もの度繰り返された主への誓いです。その重みを私たちは感じる必要があろうかと思います。自分の感情や乏しい知識で、これを揺り動かすような軽い言動をとるのは如何なものでしょう。
 
ヨシュアは、民がどうであれ、自分は主につくのだ、主に従うのだと宣言します。家という考え方を持ち出したのは、いまだ個人に徹せず家系としての尊重が残っているからではありましょうが、共同体意識が強い点は何も後れているという訳ではないかと思います。単なる個人の思考には限界があること、従って、主の名により呼び出された集いの中に結束された生き方を、ひとは軽んじることはできないのです。


Takapan
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