誰の契約なのか

チア・シード

ヨシュア24:1-13   


ヨルダン川を渡り、ヨシュアはついにイスラエルの民を約束の地に導きました。モーセに約束したことを神が果たした訳ですが、これで終わるということではありませんでした。むしろここからが始まりで、イスラエルの本当の歴史が始まることになります。約束を神が果たす、それは終末と呼ばれる、でもそれは終わりでなく始めなのかもしれません。
 
ヨシュア記が閉じられようとしています。シケムにおける契約が交わされます。アブラハムの契約がこれで終わり、という意味ではないでしょうが、新たな局面を迎え、新たな契約が提示され、ここから民が一つとなって新たな歴史を刻むことになるのでしょう。イスラエル十二部族と言いますが、どれだけまとまっていたのかは疑問だと言われるからです。
 
ヨシュアが集めたのは、イスラエルの全部族でした。神の御前に呼び出しています。「主」の前ではなく、「神の」前だと言っています。フランシスコ会訳の注は、「主」だと宗教的で祭儀的なものと言えようが、今回は「神」であり、祭司などによるものではなく、もっと政治的な営みであったのだろうと推測しています。
 
もちろん仕える相手は「主」ですが、イスラエルの数々の部族が、一つの神の下に統一体であるという認識をもつことがここで宣言されているという説明です。この後、士師記の時代になって、王制はまだ先のことではありますから、部族の政治的な統一はまだなのですが、同じ神の下に協力し合う連合意識を明確にする意義があったのです。
 
ヨシュアは戦いに秀でていました。が、それと同時に、政治的に一定の統一を果たす腕も確かだったようです。アブラハムの歴史から出エジプトという要所を踏まえて、民のアイデンティティを確立しようとします。これらは新約聖書でもしきりに注目させる点ですし、旧約の詩編や預言者の書もしばしば注目させる出来事です。イスラエルにとっての大事件でした。
 
主がエジプトに対して何をなしたのかをあなたたちはその目で見た、とここで告げていますが、ヨシュアとカレブの他には、直接見ていないはずです。出エジプトの時の生き証人はこの二人に限られていたはずです。聴衆にとっては親の世代にしか当てはまりません。聖書記者は、ここで明らかなミスをしていることになります。歴史書として見るならば。
 
けれども、この記録をいま読んでいる読者たる私たちにとってはどうなのでしょう。私たちは聖書を読み、アブラハムも知っていますし、出エジプトも読書的に体験しています。いまの私たちが自分の目撃したこととして受け止めなくてはならないとすれば、粋な計らいになります。自分で得たのではない恵みが与えられている私に突きつけられていたのです。


Takapan
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