ヨシュアへの福音

チア・シード

ヨシュア1:1-9   


律法の書に続く形で、ヨシュアを民族のリーダーとしたイスラエルの歴史が続きます。編集は、申命記と共通の背景をもつものと研究されており、このヨシュア記は申命記とリンクしていると見られています。そのため、モーセ五書に加えて、六書と呼ぶ人もいるほどです。それも理に適っていると言うことはできるでしょう。
 
ただしイスラエルはその後、五書を以て大いなる権威となし、いまなおこれらを律法として重んじるようになりました。内容的なまとまりは、確かにこの五つの書が相応しいでしょう。モーセによる出エジプトの記事はイスラエルを決定的な歴史の中に導きました。モーセの従者ヨシュアが、モーセ亡き後、自然とイスラエルの民のリーダーとなっています。
 
いえ、逆にこの地位に就いたからこそ、モーセの従者であった、と記録されたのかもしれません。特にカナンの地の偵察の時の勇気ある発言の意味は大きかったと思われ、カレブと共に最重要人物として掲げられました。神はこのヨシュアにこそ約束の地を与えると宣言しています。かのモーセではありませんでした。
 
主はヨシュアに幾度も、雄々しくあれ・強くあれ、と声をかけています。それだけ不安を抱えていたことの証左でもありますが、神は立て続けに、うろたえるな・おののくな、などと念を押します。そのとき、律法を守れ、というつながりがあることを見落とすわけにはいきません。これは、国家の危機にあった時期のイスラエルに呼びかけるかのようです。
 
アッシリアにより滅ぼされた北イスラエルの事実を目撃していた南ユダ王国のグループの手により編集されたとするならば、その中で律法に戻ること、そして恐れるなという鼓舞だと理解することもできます。この地を与えるという約束は、私たちが思う以上にイスラエルの民の心に響くのでしょう。地の獲得のためには命も惜しまぬ、地の概念なのでした。
 
命の続く限り、誰ひとりとして立ちはだかる者はいない、それが命果てるまで敵に負けない神の励ましとも取れますが、永遠に続く命のこととして、イエス・キリストを私たちは待つこもできます。イエスのヘブル表現がヨシュアなのです。主が地を、永遠の神の国を与えます。主が共にいて、永遠の命の中で安住するという幻をここに見てみたいのです。


Takapan
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