いまここに主は共にいる

チア・シード

ヨシュア1:1-9 


ヌンの子ヨシュアは、モーセに従っていた中で、頭角を現していきました。カレブと共に斥候としてカナンの地に入り、勇敢にも勝ち取る信仰を明らかにしたことで、出エジプトのメンバーの中でその2人だけが、約束の地カナンに足を踏み入れることを許されました。モーセの後継者としてどのような手続きがあったのか、聖書は明らかにしていませんが、ここで主が介入し、主が声をかけたということが決定的になりました。
 
モーセにも許されなかった、約束の地の踏み心地を、ヨシュアは知ることになります。すべての民と立つのだ。行動を起こすのだ。その地については、すでにモーセが預言をしています。モーセの口を通して、すべては語られています。だからいま、ヨシュアよ、おまえが足を踏み出せ、と。
 
思わないでしょうか。ヨシュアが自分ではないか、ということを。私もまた、エジプトを脱して歩んできました。まだゴールではありません。これから戦いがあります。しかし、この地は約束されています。モーセがキリストの予型であるなら、モーセを導いた主の霊がいま私たちと共にあり、私はヨシュアをモデルとして同じ神のことばを受けることができるようになるのです。
 
これから、妨げがあるかもしれない。けれども、進めなくなるまでにはさせない、と主は告げます。私と共にいる民のために、その地が用意されています。約束を信頼せよ、という神のことばが、いまここにも響いてこないでしょうか。強く、雄々しくあれと繰り返される力ある命令が、いま確かに私に向けられており、届けられていると実感できないでしょうか。
 
律法の書をつねに口ずさめ、と命じられます。モーセがすでに律法の書を記したという前提がなければ、この命令はナンセンスです。では律法の書は本当にモーセが書いたのか。そんな問題についての神学的議論もありますが、私たちは拘泥しますまい。私の許に与えられている律法と福音が、昼となく夜となく口ずさみ、そのことばがいつも私と共にあるようにせよ、と受け止めれば十分だと思うのです。
 
立ちはだかる者はない、という神のことばは、無条件ではなく、律法を忠実に守ればという条件が伴う仕掛けになっています。聖書の表現は注意深く読まなければなりません。表面上をなぞれば明確という論理ではないはずです。強くあれ、と主は度々ヨシュアに声をかけます。それはつまり、ヨシュアが強くないことを表しています。私もそうです。弱い私に、その都度主のことばが臨みます。うろたえるな、おののくな。どこにいても主が共にいるのだから、といまも主は私を励ましているのです。


Takapan
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