悪いのは政治家で民は正しいのか

チア・シード

エレミヤ8:8-15   


エレミヤはユダへの裁きの言葉を預かりました。たとえ人々に嫌われようと、指導者たちに憎まれようと、それを隠すことはできません。預言者エレミヤは、孤独で神の側の論理をただ告げるのです。しかし、王や指導者だけが悪いから裁かれると安易に考えたくはありません。民の一人ひとりに責任があることを、エレミヤは見逃しません。
 
政治家が悪いから国に悪いことがあると今の私たちはよく口にします。逆に、悪いことがあったら政治家が悪いのだ、と人のせいにするのです。キリスト者の知識層の人々が、政権をよく非難しているのも見聞きします。しかし主権者なる国民の一人としての自分が、その世の中の外にいて眺め、常に正しいかのように振る舞っていはしないでしょうか。
 
少なくともその議員を選んだのは国民です。たとえ投票していなかったり、他の人に投票していたりしても、国民の総意がその議員であるのなら、国民としての自分に責任がないと言い張るだけで事が済むのかどうか、疑問です。エレミヤは、その王の許で安心して暮らしている一人ひとりを強く糾弾します。
 
私たちもその社会の恩恵を受けている以上は、為政者の知恵無き行いがあっても、それをむしろ自分のこととして恥じなくてはならないとさえ思います。エレミヤは、小さな者までもが何か利を貪っている仲間だとはっきり見なしています。もちろん、祭司階級への風当たりは強いけれども、それがすべてではないし、それが根本なのではありません。
 
平和、平和、と民に向けて言う政治家の姿は、どこか諧謔的てすが、それは今も聞こえる言葉ではないでしょうか。国の威信を示すことが平和だと言ったり、悪を打ち破ることが平和だと言ったりして、平和のために軍備が必要だとすら説きます。本当にそれしか道はないのでしょうか。国民の一人として、私は問い詰める責任があると言えます。
 
しかしまた、その政治に反対する人々も、それに反対することで本当にそれが安全な道であると言えるのかどうか、平和をもたらす力があるのか、それは戦争推進者の論理も、必ずしも誤りではない可能性があります。これらのどちらにも、実りはありません。人間の判断に過ぎないものは、絶対的な正しさをもつとは言えないものなのです。
 
主が与えたはずのものが、いま目に見えて私たちの手がつくりだしてきた結果であるわけではありません。それでいて不幸なことが起こってしまったら、神が私たちを滅ぼすのだと、とたんに神の責任にしようとするのが人間です。都合の悪い時だけは神を思い出し、自らの責任を考えないというのでは、まことに自己中心的にすぎるあり方です。
 
主の律法は私たちのところにある、という自信を、私たちの自己義認と自分中心の極致である世界観からもつに至ったというのであれば、私たちはとんでもない勘違いをしていることになります。それというのも、王や為政者の責任だけにして、自分を顧みない国民のあり方について、胸に手をおいて考える必要があろうというものです。


Takapan
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